目次
三好義興について
【名前】 | 三好義興 |
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【読み】 | みよしよしおき |
【幼名】 | 三好千熊丸 |
【通称名】 | 三好孫次郎 |
【法名】 | 不明 |
【生年】 | 天文11(1542)年 |
【没年】 | 永禄6(1563)年 |
【時代】 | 戦国時代 |
【位階】 | 従四位下 |
【官職】 | 筑前守 |
【職能】 | 芥川城城主・将軍御供衆 |
【父】 | 三好長慶 |
【母】 | 波多野稙通の娘(波多野秀忠の娘説あり) |
【兄弟姉妹】 | 無し |
【配偶者】 | あり(氏素性不明) |
【子】 | 無し |
【氏】 | 三好氏(清和源氏) |
【姓】 | 朝臣 |
三好義興の生涯
三好義興の生い立ち
天文11(1542)年、三好義復は、三好長慶の嫡子として誕生する。
母は、波多野秀忠の娘である。なお、別説として、波多野稙通の娘とする説もある。
幼名は「千熊丸」と言った。
天文21(1552)年、三好長慶と細川晴元との外交交渉の結果、晴元から長慶に差し出された人質の細川聡明丸(後の細川昭元)を東寺(教王護国寺)に出迎える等、既に、三好氏を代表するような仕事をこなしている。
同年、元服し、千熊丸から改め「孫次郎慶興」と名乗る。
この慶興(三好義興)の元服に際しては、本願寺の証如(光教)から祝いの品物が贈られている。
かくて、慶興(義興)は元服するが、この年の三好氏は、晴元からの攻勢に苦しめられていた。しかも、晴元の軍勢には、慶興(義興)の母方の里である波多野氏も加勢しており、厳しい情勢にある中での慶興(義興)の元服であった。
慶興(義興)の元服を急いだ背景には、前年の天文20(1551)年に、長慶を狙った暗殺未遂事件が二度も勃発したことから早く次期家督を明確にしておく必要があったものと思われる。
翌天文22(1553)年、長慶は摂津国芥川城(芥川山城)を攻略する。
(芥川城跡)
京への出陣に便利な立地条件から、長慶は芥川城を本城に改める。これに伴い、慶興(義興)も、聡明丸と共に芥川城に入る。
三好義興、「公」の世界へ
永禄元(1558)年、三好軍と足利義輝軍との軍事衝突である『白川口合戦』が勃発。
この合戦は三好軍の松永久秀の活躍に拠って三好軍の勝利に終わる。そこで、軍事的な優位を生かして長慶は、義輝と和睦する。
翌永禄2(1559)年に、慶興(義興)は、長慶と共に上洛し、義輝との対面を果たす。
こうして、和平ムードとなったが、河内国で守護代の安見直政が実権を握り、守護の畠山高政が紀伊国に逃亡する事件が勃発。長慶は、この紛争に介入し、河内国に出兵し畠山高政を復帰させた上で、さらに大和国へも兵を出す。
畿内における当時の三好氏の軍事的な活動は相当のものであった。
このような状況下、慶興(義興)は、義輝から「義」の偏諱を受けて、名を「慶興」から「義長」と改名するのである。言わば、三好氏の実力を象徴する偏諱であったとも言える。
義長(義興)は、永禄3(1560)年には、筑前守と御供衆に任じられ、公武双方において、その存在感を見せる。
とりわけ、筑前守は、長慶の代名詞となっていた官職であり、三好家家中、及び、諸大名に対して、義長(義興)が次期家督であることを示すと共に、いかに長慶が、義興の才覚に入れ込んでいたかが判るものである。
こうして、義興が歴史の表舞台に登場し始めようとするのと同じ頃、河内国では、長慶の支援を得た畠山高政によって解任されたはずの安見直政が、再び守護代に復帰するという事態が生じる。
このため、長慶は、河内国に出兵する。
ここに、長慶は、畠山高政と安見直政を追い出し、河内国を掌中に収める。この河内制圧で手に入れた飯盛城を長慶が本城としたことで、義長(義興)は芥川城を居城として与えられ、城主となったのである。
(飯盛城と芥川城)
三好義興と足利義輝
三好義長(三好義興)は、永禄4(1561)年、松永久秀と共に従四位下に昇進し、この年、名を「義興」と改める。
(『松永久秀像』高槻市立しろあと歴史館所蔵 Wikimedia Commons)
幕府の御相伴衆に任じられることで、准管領の地位に就いたりと、義興は、次期家督相続者としての足場を確実に固める。
さらに、義興が鹿苑寺に参詣した際には、たまたま居合わせた足利義輝から盃を与えられている。そこで、その返礼として義興は、父の三好長慶の援助を受けつつ、義輝を立売町の三好屋敷に招待している。
この際、義興は、
『裏打大口。冠木門ノ北ニ出向被申』
(「三好筑前守義長朝臣亭に御成之記」『群書類従』内外書籍株式会社編 内外書籍 国立国会図書館デジタルコレクション)
装束を整え、自ら門に出て義輝を出迎えている。まさに、一大デモンストレーションであって、義興は、長慶の後継者としての存在感を内外に誇示した。
また、義輝の御供で、長慶と共に義輝の生母の屋敷を訪問した時には、長慶が「鶴」を、義興は「白鳥」を献上している。
ただ、義輝の狙いは、義興を利用して、長慶と晴元の和議を成立させることであり、実際は、義輝に体よく利用されただけであったと言えるが、それでも義興は、将軍をして、政治運営上の絶対不可欠な人物として認識され得るだけの大きな存在となっていたのである。
そして、この頃には、義輝の妹を義興の室とする動きもあったと言う。義興に対する懐柔策であるが、当時の義輝が硬軟織り交ぜた策を採ってでも義興を自らの陣営に取り込みたいと願っていたことが判る。
三好義興、合戦す!
永禄4(1561)年7月になると、近江国の六角義賢が勝軍地蔵山に、紀伊国に逃亡中の畠山高政が和泉国の岸和田へ、それぞれ兵を進める。
これらの一連の反・長慶の軍事行動の背後には、足利義輝の策動があったとされる。
京での戦闘に際し、三好長慶は、補佐役として松永久秀を三好義興に付けている。
(三好義興 布陣図)
義興部隊(兵数7000)は四条通のどん突きとも言える梅津に布陣し、久秀部隊(兵数7000)も同じく四条通の西院に布陣している。三好方の両部隊は、勝軍地蔵山方面から見れば、京の町(上京・下京)を挟んで、久秀部隊が前衛、義興が本陣と言う構えになっている。
この合戦は、一気に勝敗が決することは無く、一進一退であった。
永禄5(1562)年正月、義興は、攻め寄せる六角義賢軍(2000)を迎え撃って干戈を交えている。それでも、戦闘直後に、義輝の将軍屋敷に詣でて年賀の挨拶を行う忠勤ぶりを見せている。
しかし、3月に和泉国で行なわれた『久米田合戦』で三好軍が敗北すると事態は一変する。
義興は洛中を放棄し、西岡(にしのおか)にある勝龍寺城から山崎方面にかけて自軍を撤退させる。
西岡は、山城国乙訓郡全域と同国葛野郡の桂川西岸地域を指す。この地域は、山城国においては戦国時代屈指の歴史を持つ地域で、幕府奉公衆を輩出して来た地域であると同時に、多くの国人・土豪が各々、城や館を構えており、余所者は迂闊に手を出せない地域であった。
長慶の頃には、三好氏の支配下に置いていた。また、久秀の出身地でもあり「地の利」はあった。
(勝龍寺城)
義興は山崎に撤退するに当たり、義輝も義輝の生母共々に、山崎と淀川を挟んで向かい合う男山へ避難させている。
(山崎と男山の位置関係)
これは、義輝を六角軍と連携させないようにするためのもので、久秀の補佐があったとは言え、この義興の判断は、この先、戦略的に極めて有効なものとなる。また、現在の地図や航空写真では、男山と洛中の直線距離は近いが、当時は巨椋池があり、男山への連絡は西岡の方が便利だったのである。
やがて、和泉国に攻め寄せた畠山軍が飯盛城を攻囲する。
このため、義興は久秀と共に、同月10日、2万の兵を率いて、摂津国に入り、鳥養・柱本に布陣する。5月14日には、河内国へ前進し、飯盛城を包囲している畠山軍・安見軍・根来衆の背後を牽制する。
その上で、三好康長部隊と合流したところで、飯盛城に籠城していた長慶も打って出て雌雄を決する戦闘が開始させる。『教興寺合戦』である。この合戦において、三好軍は畠山軍を撃破する。結果、六角軍は京に駐留する意味を失ってしまう。
義興は、六角義賢と和議を結び、京から六角軍を引き揚げさせることに成功する。先に義輝を隔離し連携を不可能にして、六角軍に大義を与えなかったことが功を奏したのである。
朝廷は、京の平和を回復するのに多大の功績があったとして、義興と久秀の二人に恩賜の品を与えた。
そこには、虚々実々の駆け引きの中で、傍らに置いた久秀から時機に応じた的確な補佐を受けながら果断な決断を下すと言う、戦国武将として、そして戦国大名後継者として、大きく成長した義興の姿があった。
それは、かつて長慶が久秀を側近に置いて活躍した往年の姿を彷彿とさせるものであって、そんな義興の姿に、長慶は、心から安堵し頼もしく思っていたことであろう。
三好義興、病に倒れる!
若き三好義興が天下を差配する日が近いと誰もが確信し始めた矢先のことであった。
永禄6(1563)年、義興は、居城の芥川城内で、突然、病に倒れるのである。
朝廷も、この若き未来の天下人の容体悪化を憂い、勧修寺尹豊の奏請で、病気平癒を願い、内侍所で御神楽が催され、正親町天皇の勅筆も下賜されたものの、義興は、回復すること無く、8月25日に、その生涯を終えた。満21歳であった。
この義興の死因については、黄疸であったとする説もある。
あまりにも突然の死であったために、当時、義興は毒殺されたとする噂が流れた。
毒殺説としては、近侍する者に毒を盛られたとするものや、松永久秀に毒殺されたとするものがあった。
中でも久秀を犯人する説は、久秀が常に義興と行動を共にしていたことから流された噂であるが、言い換えれば、才知に溢れた久秀でさえも一目置いて警戒するほどに、義興が優秀な武将であったことを裏付ける噂でもある。
義興の死後、父の三好長慶は、茫然自失の日々を過ごすようになり、遂には廃人同様になってしまう。
これがために、畿内は再び動乱に突入するのである。
三好義興とは
三好義興は、戦乱の中で生まれ、育ち、そして、悲劇的な最期を迎えた武将であった。
元服して以後の義興は、父・三好長慶と将軍・足利義輝との対立の構図の中に、その身を置くこととなる。
しかし、義興の持って生まれた聡明さと人を惹きつけてやまない魅力は、過去の軋轢を克服してしまう。即ち、かつての長慶と義輝の間にあった「憎悪と相互不信」の関係が、義興と義輝との間では「信頼と相互協調」の関係へと指向するようになる。
義輝は、義興のことを、長慶ほどの策謀家とは見ていなかったようで操り易いと判断していたようである。
だが、その後、六角氏の軍事行動の際に、義興が素早く義輝を洛中から男山へ移動させた判断力を見ても、長慶の薫陶を受け、松永久秀の補佐を得た義興の方が、義輝よりも一枚も二枚も上手であったと言える。
にも関わらず、義興は義輝を粗略に扱った形跡も無く、将軍としての敬意を充分に払っている。
これらから窺えるのは、義興が三好氏の家督を相続した後には、義輝の将軍体制も一層強固なものとなった可能性が高かったと言うことである。
なお、義興の死について、松永久秀の毒殺とする説がある。しかし、永禄6(1563)年の時点において、久秀が義興を殺害すべき動機が無い。そもそも久秀は、当時、大和国の運営に本格的に取り組み始めた時期であり、自分の後ろ盾となる三好氏の次期惣領を殺害しても何の益も無いと思われる。
義興が早世することが無かったなら、恐らく、その後、日本が「天下統一」に向かう過程で、何らかの形で、日本史上に、その名を刻んだことは間違いないであろう。何よりも「織田信長が足利義昭を擁して上洛する」と言う歴史が無かったことだけは確かと言える。
(『織田信長像(部分)』長興寺所蔵 Wikimedia Commons)
間違いなく日本史は、義興の死に拠って大きな転換点を迎えたのである。
そう思わずにはいられないほどの大いなる可能性を秘めた人物が、三好義興であった。
三好義興の系図
《三好義興系図》 三好元長━━長慶 │ ┝━━義興 │ 波多野稙通┳女子 ┗晴通
《三好氏系図》 三好之長┳長秀┳元長┳長慶┳義興 ┃ ┃ ┃ ┗義継(養嗣) ┃ ┃ ┣義賢 ┃ ┃ ┣冬康 ┃ ┃ ┗一存━義継 ┃ ┗康長 ┣頼澄 ┣長光 ┗長則━長逸
三好義興の年表
- 天文11(1542)年誕生。
- 天文21(1552)年正月28日細川聡明丸(昭元)を東寺で出迎える。
- 12月25日元服。
- 天文22(1553)年8月29日越水城から芥川城へ入る。
- 永禄元(1558)年6月9日『白川口合戦』。
- 9月3日堺に到着。
- 11月6日三好長慶と足利義輝との間に和睦成立。
- 11月27日足利義輝、京に復帰。
- 永禄2(1559)年2月2日上洛する。
- 3月3日足利義輝に謁見。
- 12月18日足利義輝から「義」の偏諱を受ける。
- 永禄3(1560)年正月21日筑前守。
- 2月1日御供衆。
- 永禄4(1561)年正月28日従四位下。
- 2月1日桐紋の使用を許される。
- 3月3日足利義輝を自邸に招待する。
- 3月30日足利義輝、義興邸を訪問。
- 閏3月12日足利義輝の御供で将軍生母邸を訪問。
- 12月松永久秀と連名で山崎に「徳政」を免除する。
- 永禄5(1562)年正月10日六角義賢軍と合戦。
- 3月6日山崎へ撤退。
- 3月10日飯盛城救援のため摂津国へ移動。
- 5月14日河内国へ展開。
- 5月20日『教興寺合戦』。
- 6月26日朝廷から戦功を彰し下賜品を与えられる。
- 永禄6(1563)年8月22日義興の病気平癒祈願ために内侍所で御神楽が催される。
- 8月25日死去。
- 11月15日葬儀。