三成について
【名前】 | 三成 |
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【読み】 | みなり |
【生年】 | 不明 |
【没年】 | 不明 |
【時代】 | 飛鳥時代 |
【職能】 | 奴(山背大兄王の奴) |
【父】 | 不明 |
【母】 | 不明 |
三成の生涯
三成の生い立ち
三成の出自や系譜は一切が不明である。
また、いつ頃、山背大兄王の奴となったのかも判らない。
三成と『山背大兄王襲撃事件』
皇極天皇2(643)年、蘇我入鹿の派遣した討伐部隊が山背大兄王の斑鳩宮を襲撃すると言う事件が起こる。
この時、大部隊を擁する蘇我氏の軍勢の前に立ちはだかったのが、三成であった。
三成の他に、山背大兄王の舎人数十人も加わったものの明らかな劣勢に立っていた。
「三成こそ一人当千(一騎当千)の勇者なり」
大規模な襲撃部隊を前にしても、三成は、一切怯むことは無かった。
目の前に山のように迫り来る蘇我軍に対して、手にした弓から次々と矢を射掛けた。
このうちの一本の矢が蘇我軍の将を務めていた土師猪手に命中し、猪手は、そのまま命を落とした。
この様子を見た蘇我軍の兵たちは、
『一人當千といふは、三成を謂ふか』
(『日本古典文學大系68 日本書紀 下』 坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
と恐れおののき、蘇我軍の戦線は、徐々に下がり始め、斑鳩宮を遠巻きにするだけであった。
この隙に、山背大兄王は斑鳩宮を脱出し、自害して果てることとなる。
山背大兄王の脱出を見届けてから以後の三成の消息は不明である。
三成とは
三成は、山背大兄王の「奴」であったと記録されている。
「奴」とは「奴婢」を指すもので、「奴婢」は、皇族や豪族等の有力者に属して、農作業に従事した者たちのこととされる。
正史では、山背大兄王が、蘇我入鹿の派遣した討伐部隊に襲われた際、三成の他に、その防戦に当たったのが、舎人たちであったと伝えている。
当時の舎人は、東国の豪族から寄進された武人であり、それら武人たちと比べても、三成は、互角以上の働きをしたことになる。
ここで思い起こされるのは『壬申の乱』でも「奴」が活躍していることである。
これらのことから「奴婢」の中から屈強で有能な者を、私兵として、取り立てていたのではないだろうか。
とすると、三成は、「奴婢」として主家に隷属している一族の待遇が、自らの活躍によって改善されるために戦ったと考えられる。
また三成と言う名は、聖徳太子が唱えた「三宝」を連想させるものであり、このことから、三成は、聖徳太子に関連する寺院の「奴」であって、山背大兄王によって斑鳩宮に呼び寄せられていた可能性も考えられるところである。
一方、注目すべきことは、山背大兄王邸が襲撃されてから、僅か3年後の大化2(646)年に出された詔の中の一文である。
『奴婢有りて、主の貧しく困めるを欺きて、自ら勢家に託きて、活を求む』
(『日本古典文學大系68 日本書紀 下』 坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
即ち、当時の奴婢は、主家に対して絶対的な忠誠を誓っていたわけではなく、仕える主家が没落すれば、さっさと主家を見捨てて、他の力ある主家を探して、そこに活路を見出すことが頻繁にあったのである。
事実、山背大兄王が自決して以後の三成の消息は不明である。つまり主家筋の山背大兄王の後を追った殉死はしていないのである。
「一人当千」つまり「一騎当千」と呼ばれた三成の武勇は、多くの有力者が自家に求めたことであろう。
三成が、一体どうなったのか。
それは日本史の中に封印され永遠にわからない。
ただ、父や母、そして妻や子のために、命を賭けて戦っていた「奴」が、三成の他にも、たくさんいたのである。
彼らこそは、日本史に埋もれた古代の勇者であったと言えるのではないだろうか。
三成の系図
不明
三成の年表
<皇極天皇2(643)年>
11月1日、『山背大兄王襲撃事件』。