神子田正治【非情の最期!羽柴秀吉の黄母衣衆】

神子田正治について

【名前】 神子田正治
【読み】 みこたまさはる
【通称】 半左衛門尉
【生年】 不明
【没年】 不明
【時代】 戦国~安土桃山時代
【出仕先】 木下氏家臣・羽柴氏家臣
【父】 不明
【母】 不明
【氏】 神子田氏

神子田正治の生涯

神子田正治の生い立ち

神子田正治については確かな史料が乏しく、確かな出自等は不明。

『武家事紀』に拠れば、父は神子田肥前守とされる。ただ、この「神子田肥前守」が一体何者であるのかは不明である。

羽柴秀吉が織田信長から取り立てられ、家臣を持つようになった時期から仕えていたとされ、宮田光次・尾藤知定・戸田勝隆等と共に、長浜時代の秀吉が右腕と頼む家臣で「黄母衣衆」のひとりであったと伝えられる。

織田信長
(『織田信長像(部分)』長興寺所蔵 Wikimedia Commons)

神子田正治の長浜時代

天正元(1573)年、羽柴秀吉が長浜城主となると、正治は、秀吉から長浜周辺に、250貫文の所領を与えられている。

長浜時代の秀吉は、才走り八面六臂の大活躍をしていた時期であり、その秀吉の下で、正治もまた持てる力を出し切り粉骨砕身働いていたものと思われる。

神子田正治の戦働き

羽柴秀吉に従い各地の戦場を転戦し、『中国征伐』での軍功を以って播磨国内に5000石を加増されたとされる。

そして、天正10(1582)年6月、明智光秀が、本能寺において信長を討つと言う所謂『本能寺の変』が勃発。正治は、羽柴軍の一部隊として「中国大返し」を経て、備中国から畿内へ進軍する。

そして、6月13日の『山崎合戦』では、備中国から駆けて来て充分な休養も与えられず疲労困憊する兵を励まし奮起させつつ、いち早く、羽柴秀長部隊や黒田孝高部隊と共に天王山に登り布陣し、戦場を見渡すことが可能な高所を制圧することに成功している。

『山崎合戦』で光秀を倒して、信長の後継者争いで主導権を握った秀吉は、天正11(1583)年4月、『賤ヶ岳合戦』にて、最大のライバルであった柴田勝家を討つ。

この合戦においても、正治は、第十番部隊として参加し活躍したとされ、戦後に播磨国宍栗郡広瀬城を与えられる。

先に与えられた領地5000石も播磨国であることから、正治は、この当時、中国地方攻略の先鋒としての役割を任されていたものと思われる。

神子田正治の唯一の失態と追放

翌天正12(1584)年3月、羽柴秀吉と徳川家康との間で起こった軍事衝突『小牧長久手合戦』においては、羽柴軍左翼第一部隊6000に、兵600を率いて参加する。

因みに、この戦役に参加した秀吉配下の生え抜き諸将の石高と兵力を比べて見ると、石高5000石の福島正則が兵300、同じく石高3000石の加藤清正が兵150であることから、この頃の正治は、1万石ほどの動員力を有していたものと見られる。

戦況であるが、野戦慣れした徳川軍が優位に進める展開の中、正治は、尾張国春日井郡の二重堀の防衛を任されていた。しかし、家康と同盟を結んでいた織田信雄の軍勢に拠る奇襲攻撃を受け混乱し態勢を立て直す間も無く、あっけなく神子田部隊は敗走した。

このため、正治は、秀吉の怒りを買い、全ての所領を取り上げられた上で高野山へ追放処分となったと言う。この時、取り上げられた正治の播磨国宍栗郡は、この年、黒田孝高に与えられている。

しかも、天正13(1585)年閏8月には、重ねて秀吉から処分が下され、その高野山からも追放され、時期は未詳ながら、遂には、斬首された果てに、正治の頚は京の一条戻橋に晒されたと伝えられる。

正治の最期には別説もある。そもそも、これら正治の履歴は、江戸時代の『武家事紀』等に拠るところも多く確かなことは不明である。

神子田正治とは

神子田正治は、謎の多い人物であるが、裸一貫から「城持ち大名」へと駆け上がった羽柴秀吉を、その草創期から戦場の最前線に立って支え続けたのが正治であった。織田信長の下で懸命に働く秀吉と共に笑い共に泣いたはずである。

正治の『小牧長久手合戦』での敗走が、合戦の大局に影響を与えたとも思えない。

しかしながら、正治が敗走したために犠牲を出したことに加えて、結果として、『小牧長久手合戦』が敗戦に終わったことを併せ、責任を負わされ高野山への追放処分を受け、さらには、高野山も追放され、惨めな死を迎える。

『武家事紀』は、正治は、豊後国まで逃亡したものの、最終的には、京の一条戻橋に正治の頚は晒されたと言う。

当時の秀吉には、『小牧長久手合戦』での事実上の敗戦が重くのしかかっていた。しかも、子飼いの加藤清正、福島正則、石田三成等は、武将として未だ成長過程であり、秀吉は、家臣の多くを、外様に頼らねばならない状況にあった。その外様の家臣たちへの見せしめと引き締めのために、秀吉は数少ない生え抜きの家臣である正治を、「失敗した者には厳罰を下す」と言う先例として、粛清する必要があったのではないだろうか。

秀吉が「天下人」へと上り始めた時、その非情な政治論理の前に、正治は姿を消すこととなったのである。なお、正治の従兄弟は、堀秀政に仕えたと言われている。

神子田正治の系図

《関係略図》

神子田肥前守━━正治

神子田正治の年表

年表
  • 天正元(1573)年
    9月
    近江国内に250貫文を与えられる。
  • 天正10(1582)年
    6月2日
    『本能寺の変』。
  • 6月13日
    『山崎合戦』。
  • 天正11(1583)年
    4月
    『賤ヶ岳合戦』。
  • 天正12(1584)年
    3月
    『小牧長久手合戦』。
  • 天正13(1585)年
    閏8月13日
    高野山から追放される。