目次
土田御前について
【名前】 | 土田御前 |
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【読み】 | どたごぜん(つちだごぜん) |
【法名】 | 花屋寿栄大禅定尼(『勢陽雑記』) |
【生年】 | 不明 |
【没年】 | 文禄3(1594)年正月7日(『勢陽雑記』) |
【時代】 | 戦国~安土桃山時代 |
【父】 | 土田政久 |
【母】 | 不明 |
【兄弟姉妹】 | 土田親重 |
【配偶者】 | 織田信秀 |
【子】 | 織田信長・織田勘十郎(織田信勝) |
【氏】 | 土田氏 |
土田御前の生涯
土田御前の生い立ち
土田御前は、土田政久の娘と言われる。土田御前の誕生年等は不明である。
土田御前の生家である土田氏は、美濃国可児郡土田に本拠おいた土豪とされている。また、美濃の土田氏は、宇多源氏の血を引く近江国六角氏の流れを汲むとも言われる。
(美濃国可児郡土田)
また、別説として、尾張国海東郡土田の出身とも言われる。
(尾張国海東郡土田)
ただ、土田御前に関しては、当時の確かな史料が存在していないことから、出自や実父に関しては不明な点が多い。
土田御前、織田信秀に輿入れする
時期は不明であるが、尾張国下四郡の織田氏(織田弾正忠家)の織田信秀に輿入れする。
《土田御前と織田信秀》 土田政久━土田御前 │ ┝━━━┳信長 │ ┗勘十郎(信勝) │ 織田信定━信秀
この時の土田御前の輿入れは「正室(嫡妻)」と言う立場であった。
なお、信秀の父の織田信定も土田氏から室を迎えている。この姑(信定夫人)と土田御前が縁戚関係に当たるものであるのか?については不明である。
《土田氏と織田氏》 土田政久━━━━━土田御前 │ │ 織田氏(含笑院) │ │ │ ┝━━━━━━━信秀 │ 織田信定 │ │ 土田氏
そもそも美濃国可児郡の土豪と尾張国下四郡を治める織田氏の分家で家臣筋に過ぎない織田弾正忠家とが、どういういきさつで二代にも渡り婚姻関係を結ぶ必要があったのか?謎である。
土田御前、男子を相次ぎ出産
土田御前は、織田信秀に輿入れして、天文3(1534)年に男子(吉法師・織田三郎信長)を出産する。
(『織田信長像(部分)』長興寺所蔵 Wikimedia Commons)
信秀には、別の女性との間に既に男子(織田信広)を儲けていたが、正室たる土田御前の出産した男子が嫡男とされた。
《土田御前と織田信秀》 土田政久━土田御前 │ ┝━━━┳信長 │ ┗勘十郎(信勝) │ 織田信定━信秀 │ ┝━━━━信広 │ 某女
吉法師には、平手政秀が「傅役」に付けられた。
乳母も付けられたが、吉法師は癇の強い子であったために乳母の乳首を噛み切る等したために、何人もの乳母が付けられたとも言われる。換言すれば、吉法師は乳母との擬制母子関係に基づいた幼少期を過ごしていたことになる。
なお、吉法師の乳母の中には、池田恒利の妻(池田恒興の生母)もいた。
土田御前、織田信長の弟・織田勘十郎を溺愛する
吉法師(織田信長)の出産に続き、土田御前は、時期は不明であるが二人目の男子(織田勘十郎)を出産する(織田信包も土田御前所生の男子とする説もある)。
土田御前の下から離されて、乳母の下で自由奔放に育った吉法師は元服し、織田三郎信長となる。
乳母との擬制母子関係を重要視する信長を、土田御前は疎ましく思うようになったとする見方がある。
しかし、土田御前が、土豪とは言え家格のある出身であるとしたならば「嫡男は乳母が育てる」と言う認識はあったはずであり、果たして「母子関係」のみで信長を忌み嫌うことほど土田御前が浅薄な女性であったのか?極めて疑問の残るところである。
一方、信長の自由奔放さは保守的な家臣たちからは毛嫌いされ、むしろ、当時の武家のしきたりや常識をわきまえた勘十郎が、織田弾正忠家の家督に相応しいとして考えられるようになって行く。
不穏な空気が家中に漂う状況下、織田信秀が死去する。信秀の末森城(末盛城)は、勘十郎が相続し、土田御前も勘十郎と共に末森城に入り過ごす。
(末森城跡)
信秀の葬儀で見せた信長と勘十郎の振る舞いの対比は、さらに、勘十郎派に追い風となった。
ここに「信長を忌み嫌う土田御前」と「信長を排除したい保守派家臣」は、「反・信長」を合言葉にして互いの実利に拠って結びつく。
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平手政秀
織田信房
佐久間信盛
丹羽長秀
佐々成政
池田恒興
森可成
前田利家
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林秀貞
林美作守
柴田勝家
佐久間盛重
こうして出来上がった二つの派閥の憎悪は頂点に達する。
土田御前、敗北した織田勘十郎のため織田信長に謝罪!
織田勘十郎は、織田信長に対して謀反を起こす。『稲生原合戦』である。
合戦は当初、兵数で優位に立った勘十郎軍が押したものの、信長が勝利を収める。
勘十郎の完全敗北に慌てたのが土田御前である。徹底抗戦の構えを取る勘十郎に代わり、清須城(清州城)から村井貞勝と島田所之助を末森城(末盛城)に呼び寄せ、とにかくひたすら二人に頭を下げまくり泣き落とした。
その上で自分の名代として清須城に送り返し、
『信長公にいろいろさまざまにわび言』
(『信長公記(上)』太田牛一原著 榊山潤 訳 ニュートンプレス)
を並べ立て、ひたすら信長の許しを乞うはめとなっている。貞勝と所之助が信長の家臣筋であることを屁とも思わず自分の「名代」に扱うところは、土田御前の面目躍如であるのかも知れない。
信長も、そんな土田御前を「バカ過ぎる不憫な母」と思ったのであろうか、土田御前の顔を立てる形で勘十郎の謀反を許した。
そこで、勘十郎・柴田勝家・津々木蔵人が赦免されたことへの御礼に清須城に向かうと、
『お袋様もご同行で清州へおいでになり、お礼を申し上げた』
(『信長公記(上)』太田牛一原著 榊山潤 訳 ニュートンプレス)
と言う顛末であった。
土田御前、織田勘十郎を死に追いやる
だが、織田勘十郎は、織田信長への謀反をあきらめなかった。
「三つ子の魂百まで忘れず」であろうか。
勘十郎は、尾張国上四郡の織田信安と連携し、信長を抹殺することを画策する。
最早、なりふり構わぬ「復讐の鬼」と化した勘十郎を土田御前が諫めたと言う史料は残されていない。恐らく諫めるようなことはしなかったのであろう。
かつて、勘十郎に信長への憎悪を煽るだけ煽り合戦に持ち込み、挙句、勘十郎だけで無く勘十郎に付けられた有能な家臣の命さえ危うくしたのが、土田御前であったのだが、そんな風はどこ吹く風である。
このような勘十郎と土田御前の有様に愛想を尽かせたのが柴田勝家である。勝家は、勘十郎と土田御前を見捨てて、極秘裏に信長の下に走り、勘十郎の愚かな叛乱計画を密告する。
間もなく、信長は重篤な病状となる。
土田御前は、この機を利用して、先に信長が勘十郎を赦した恩を逆手に取ろうとする。それは勘十郎が謀反人では無く、周囲に利用されただけの「兄思いの良き弟」であることを、織田家(織田弾正忠家)中に知らしめる好機と見たのである。また、同時に、信長が弱っていれば、そのまま家督を勘十郎に移譲させようと考えたとも想像される。
そして、策士たる信長が俄かに病気になったと言う情報を信用しない勘十郎に対し、信長の見舞いのため清須城(清州城)へ行くようにしきりと勧める。勘十郎も土田御前の勧めである以上、抗し切れず見舞いに向かう。
(清須城跡)
しかし、信長の方が、土田御前・勘十郎の母子よりも遥かに海千山千であった。
ノコノコと信長の見舞いにやって来た勘十郎は、あっさりとその信長に謀殺されてしまうのである。
土田御前が、勘十郎を死に追いやったようなものであった。
土田御前の晩年
織田勘十郎を喪ってからの土田御前の言動を知ることは出来ない。
ただ、愛する我が子・織田勘十郎が遺した坊丸(津田信澄)を守ることだけであったろうと推測出来るだけである。
そんな、土田御前を織田信長は、転々とした自らの居城に連れて回った。当時の信長の真意と、土田御前の心情は判らない。
その信長は、天正10(1582)年、明智光秀の謀反の前に横死。土田御前を苦しめた信長は永遠に消えた。だが、光秀の娘を室としていた津田信澄は、丹羽長秀等から光秀との内通を疑われ自刃に追い込まれる。
信長亡き後、土田御前は、織田信雄の下に引き取られ、次いで、織田信包に引き取られ、文禄3(1594)年に死去したとされる。
土田御前とは
土田御前は、自分の腹を痛めて出産した織田信長と織田勘十郎(織田信勝)の二人を争わせた母である。
とりわけ勘十郎には、幼少時から信長への敵対心を植え付け、信長の廃嫡どころか信長の殺害も視野に入れていたとも言われている。
この土田御前の狂気について「乳母に育てられた信長を嫌い、自分の手元で育てた勘十郎を可愛がった」からと言う理由付けが為されることが多い。
そして、土田御前の動機付けの傍証として引き合いに出されるのが、最上氏(伊達政宗生母)や崇源院(浅井江・徳川家光生母)の存在である。そして、彼女たち(伊達政宗生母や崇源院)と同じく肩入れした弟の方を亡くすと言う悲劇を迎えている。
だが、土田御前は、本当に「乳母に育てられたから」「うつけだから」と言う理由で信長を嫌ったのであろうか。
参考程度にしかならないが、土田御前の系図を見ると非常に興味深いことが見えて来る(ただし「系図」と言うものは幾らでも改竄可能であることは大いに留意すべきことで全面的な信用を置けないものでもある)。
土田御前の父とされる土田政久は、生駒家広の娘を妻としているのである。
《土田政久と生駒氏》 土田秀久━政久━土田御前 │ ┝━親重 │ 生駒家広┳女子 ┗豊政
そして、自分の子の土田親重を、義兄弟となる生駒豊政に実子がいなかったことを理由に養子に送り込んでいる(この土田親重と土田政久を同一人物とする説もある)。ところが、親重が養子となった後、豊政に実子・生駒家宗が誕生するのである。
このことで、当時、商売を行うことで潤沢な資本を持っていた生駒氏は、家広の男系と女系の二系統に分かれることとなる。
《二系統に分裂した生駒氏》 土田秀久━政久━土田御前 │ ┝━親重(土田親重・生駒親重) │ 生駒家広┳女子 ┗豊政━家宗
土田氏と生駒氏の系統が混沌とする中、土田御前は、織田信秀の正室となる。
これまでの土田氏と生駒氏の流れから見るならば、尾張国下四郡の織田氏(織田弾正忠家)は、生駒親重流の生駒氏との関係を重要視していたことが窺える。
ところが、土田御前が出産した織田信長が話をややこしくする。
なんと、信長は、こともあろうに、生駒家宗の娘と関係を持ったのである。この生駒家宗の娘が、俗に「生駒吉乃(実名は不明)」と呼ばれる女性である。しかも、先に夫を亡くしたばかりの未亡人であった。
《織田信長と生駒氏》 織田信秀 │ ┝━━━━━━信長 │ │ 土田秀久━政久━土田御前 │ │ │ ┝━親重 │ │ │ 生駒家広┳女子 │ ┗豊政━家宗━━━━━┳女子(生駒吉乃) ┗家長
即ち、信長は、土田御前にとっては、父の政久の流れを汲む生駒親重と対立する関係となっていた。このことは、実家の土田氏の繁栄のために、生駒親重流の生駒氏を盛り上げねばならなかった土田御前にとって大きな問題となったはずである。
土田氏にとって「織田信長は邪魔」な存在だったのである。
そこに、織田家(織田弾正忠家)中にあった「反・信長」派閥の思惑が絡み合ってしまったのではないだろうか。
土田御前は、ただ単に手元で育てた織田勘十郎が可愛くて、それがために織田信長を殺そうとした「毒親」では無く、実家のために心を鬼として、自分が産んだ子同士を争わせねばならなかった「戦国の運命に生きた女性」だったのであるまいか。
江戸時代に形作られた男尊女卑の歴史観の下で、土田御前ひとりが悪者に仕立てられてしまったように思われてならない。実際は、自分の意志とは関係無く「イエ」と言う価値観に突き動かされたのが土田御前であったのではないだろうか。
『勢陽雑記』に記される法名「花屋寿栄大禅定尼」に、自分を縛り付けていた運命から解放された土田御前の穏やかな真の姿が見えるようである。
土田御前の系図
《土田御前系図》 土田政久━土田御前 │ ┝━━━┳信長 │ ┗勘十郎(信勝) │ 織田信定━信秀
土田御前の年表
- 天文3(1534)年5月12日織田信長を出産。
- 弘治2(1556)年8月24日『稲生原合戦』。
- 弘治3(1557)年11月2日織田勘十郎、信長に謀殺される。
- 永禄7(1564)年正月津田信澄、元服。
- 天正10(1582)年6月2日『本能寺の変』。織田信長、横死。
- 6月5日津田信澄、自刃。
- 文禄3(1594)年正月7日死去。