葦原王【実録!猟奇殺人!人肉を食らう皇族!】

葦原王について

【名前】 葦原王
【読み】 あしはらおう
【別表記】 茅原王
【生年】 不明
【没年】 不明
【時代】 奈良時代
【位階】 不明
【官職】 不明
【父】 山前王
【母】 不明
【兄弟姉妹】 池原女王
【配偶者】 不明
【子】 男女6名
【氏】 龍田氏
【姓】 真人

葦原王の生涯

葦原王の生い立ち

山前王の子。

誕生年や生母が誰であったのかは不明である。

姉妹に池原女王がいる。

葦原王が行った猟奇殺人

天平宝字5(761)年、葦原王は、居酒屋で御使麻呂と酒をあおりながら賭博に興じていた。

すると突然、葦原王が激昂し出し、持っていた刃物で麻呂を刺し殺してしまった。

しかも、

『屠其股宍』

(『続日本紀』西島政之 経済雑誌社 国立国会図書館デジタルコレクション)

麻呂の死体から太腿の肉を切り落とした。その上で、切り落とした麻呂の太腿の肉を、麻呂の死体の胸に載せて、まな板代わりにして、その麻呂の太腿の肉を細かく切り刻み、

『膾之』

(『続日本紀』西島政之 経済雑誌社 国立国会図書館デジタルコレクション)

膾(なます)に捌いて酒の肴にしたのである。

血の海で人肉を食べていた葦原王は、この後、捕縛された。

葦原王への勅裁

この葦原王の猟奇殺人について、

『有司奏請其罪』

(『続日本紀』西島政之 経済雑誌社 国立国会図書館デジタルコレクション)

犯罪人が皇族であるため対応に苦慮した担当官庁は、淳仁天皇に勅裁を求めた。

淳仁天皇も、葦原王が天武天皇の曾孫に当たり、自身の従兄弟の子であることも考慮し、本来死罪であるべきところを一等減じて種子島への流罪とした。

種子島
(種子島)

ただし、葦原王から皇籍を剥奪し、

『除王名』

(『続日本紀』西島政之 経済雑誌社 国立国会図書館デジタルコレクション)

「龍田真人」姓を与えた上での流罪であった。

葦原王とは

葦原王の人となりについて正史は、

『天性凶悪』

(『続日本紀』西島政之 経済雑誌社 国立国会図書館デジタルコレクション)

と評している。

父の山前王は養老7(723)年に亡くなっているが、葦原王がそれまでに官職に就いた履歴は残されてない。また、位階の履歴も残されていない。恐らくは、従五位下の官位は与えられていたはずであるが、葦原王の履歴が残されていないのは、猟奇殺人に拠り皇籍を剥奪されたことに拠るものと思われる。

ただ、官人としての才能は無かったのであろう。

山前王の死後38年経ての猟奇殺人であり、事件発生時には葦原王もそれなりの年齢であったと推察される。

しかし、葦原王は、御使麻呂に対する猟奇殺人以外にも、

『及他罪状明白』

(『続日本紀』西島政之 経済雑誌社 国立国会図書館デジタルコレクション)

とあることから犯罪行為は昔から日常茶飯事に行っていたらしい。

流罪になったのは、葦原王だけで無く、葦原王の子の男女6名も葦原王と共に種子島へ流罪に処されている。子供たちについては、「(葦原王に)随行させた」ように正史『続日本紀』は記しているが事実上の連座であったと考えられる。このことから、相当、問題視されていた一家であったことが判る。

平城京と種子島
(平城京と種子島)

種子島へ流されて以降の葦原王と子供たちの消息は何も伝えられていない。

後の平安時代には、皇胤の長野女王が猟奇殺人事件を引き起こしている。

皇族・皇胤であっても皇室(天皇家)から血縁的に遠い傍流に過ぎない存在は、かえって苦しい生活を強いられる一面があったのかも知れない。

葦原王の系図

《葦原王略系図》

天武天皇┳高市皇子
    ┣草壁皇子━文武天皇━聖武天皇━孝謙天皇
    ┣大津皇子
    ┣舎人皇子━淳仁天皇
    ┗忍壁皇子┳小長谷王
         ┗山前王━┳池原女王
              ┗葦原王━┳子
                   ┣子
                   ┣子
                   ┣子
                   ┣子
                   ┗子

葦原王の年表

年表
  • 天平宝字5(761)年
    3月24日
    種子島へ流罪となる。