内臣【日本史上で僅か四人しか就いていない官職!】

内臣について

【表記】 内臣
【読み】 ないしん
【国風読み】 うちつおみ
【時代】 飛鳥~奈良時代

内臣とは

令外官。

皇極天皇4=大化元(645)年6月14日、『大化改新』政権が発足。その時に「大錦」位を授与された中臣鎌足が就任したことが始まり。

中臣鎌足の「内臣」は、中大兄皇子(後の天智天皇)との関係が密接であり、 中大兄皇子個人の政治補佐的な役割が大きいものであった。そこが、令制下の左右大臣と大きく異なる点とされる。

天智天皇の皇孫である光仁天皇の時代に内臣の職掌等が具体的に決められ「大納言相当」とされたものの、内臣は姿を消す。なお、日本史上で内臣に就いたのは、中臣鎌足、藤原房前、藤原良継、藤原魚名の4名だけである。さらに、所謂、藤原四家の中で藤原南家と藤原京家からは輩出していない。

内臣の年表

中臣鎌足の内臣

<大化元(645)年>
6月14日、中臣鎌足、内臣に就任。

<天智天皇8(669)年>
10月15日、中臣鎌足、内臣から「内大臣」に就任する。

鎌足は、死の直前に内臣から「内大臣」に就任する。

藤原房前の内臣

<養老5(721)年>
10月24日、藤原房前、内臣に就任。

房前の内臣就任は、元明太上天皇の皇孫である首皇太子(母は藤原宮子)を皇位に就けることが主目的のひとつであったとも言われる。この房前のみが唯一、内臣から「内大臣」に就いていない。

藤原良継の内臣

<宝亀2(771)年>
3月13日、藤原良継、内臣に就任。

良継の内臣就任に際して、内臣の職掌・位階・俸禄等は「大納言」と同等とされる。その後、良継は、宝亀8(777)年正月3日に「内大臣」に進むこととなる。

藤原魚名の内臣

<宝亀9(778)年>
3月3日、藤原魚名、内臣に就任。

魚名の内臣就任時に、「内臣」は「忠臣」と名称を変え、鎌足以来の「内臣」の呼称は消えることとなる。その後、宝亀10(779)年正月1日、魚名は「内大臣」に就任している。

内臣から内大臣へ

内臣が「大臣」職へ発展した形が「内大臣」とする説がある。

実際、この後、内大臣は、令外官でありながらも、太政大臣、左大臣、右大臣に次ぐ極めて重要な大臣職となって行く。