国博士

国博士について

【表記】 国博士
【読み】 くにはかせ(くにのはかせ)

国博士とは

古代及び律令体制下の官職。

国博士には、『大化改新』期に限定して存在した国博士と、律令体制下で官職としての国博士の二種類がある。

『大化改新』期の国博士

その実質的な活動内容は不明であり、孝徳天皇を中心とする政権の政策諮問機関とも考えられる。このため孝徳天皇と中大兄皇子が対立し、改新政権が瓦解した後には、正史から国博士は姿を消している。

律令体制下の官職としての国博士

律令体制下、国別に一人が任命され、各国の国学(地方の教育機関)で学生に経学を教えた。国博士の選抜は、各国内ないしは隣国からとされていたが、間もなく適材がいない場合は中央から派遣することに改められた。

国博士は、国司が適任者を選抜した上で、中央の太政官に申請し、式部省が補任した。一度、国博士に補任されると、簡単に解任されることは無かった。 こうして、地方における人材養成に当たった。

国博士が教える学生の定員

【大国】 50名
【上国】 40名
【中国】 30名
【下国】 20名

国博士の現実

地方で国博士に適した人材の確保は困難を伴い、早い段階から中央から国博士を地方に派遣することとなった。

その中央から派遣された国博士も、国司における史生に准じたものであり、しかも、国博士を設置する国が減少されたりと国博士の制度には紆余曲折も見られた。

国博士の年表

<大化元(645)年>
6月14日、旻と高向玄理が国博士に任じられる。

<大化5(649)年>
2月、八省百官制度の導入についての研究を命じられる。

<大宝元(701)年>
6月8日、『大宝律令』施行。

<大宝3(703)年>
3月16日、該当国で国博士に適した人材がいない場合は、中央から派遣することを決める。

<和銅元(708)年>
4月11日、中央から派遣する国博士は、史生に准じることとされる。

<養老7(723)年>
10月8日、畿外の地方では、按擦使が設置されている13ヶ国のみに国博士を配する。

<天平宝字元(757)年>
5月20日、『養老律令』施行。

<宝亀10(779)年>
閏5月27日、再び各国に国博士を設置。