継体天皇陵【太田茶臼山古墳】

継体天皇陵について

【表記】 継体天皇陵
【読み】 けいたいてんのうりょう

継体天皇陵

継体天皇

【歴代】 第26代
【生年】 允恭天皇39(450)年
【崩年】 継体天皇25(531)年
【在位期間】 継体天皇元(507)年~継体天皇25(531)年

継体天皇の系図

《関係略図》

         尾張連草香━目子媛
                ┃
                ┣━━━━┳安閑天皇
                ┃    ┗宣化天皇
                ┃
応神天皇━(略)━彦主人王   ┃
          ┃     ┃
          ┣━━━━継体天皇
          ┃     ┃
         振媛命    ┃
                ┃
                ┣━━━━━欽明天皇
                ┃
               仁賢天皇━━手白香皇女

継体天皇陵とは

継体天皇陵

【御陵名】 藍野陵・三島之藍陵
【古墳名】 太田茶臼山古墳
【古墳の形状】 前方後円墳
【墳丘の全長】 226メートル
【墳丘の最大幅】 147メートル
【後円部の高さ】 19.2メートル
【前方部の高さ】 19.8メートル
【周濠部の幅】 28~33メートル
【陪冢】 5基(前方後円墳・方墳・円墳)
【所在地】 大阪府茨木市太田三丁目

継体天皇陵を巡る問題

考古学的な問題

継体天皇陵外堤部から出土した埴輪の様式等から継体天皇陵の築造年代は、5世紀中頃から後半ぐらいが推測される。

継体天皇が崩御したのは、6世紀前半で、現在の継体天皇陵の築造とは、およそ100年ほどの隔たりが考えられることが問題とされる。また、現在の継体天皇陵は、その築造様式が、古市古墳群の古墳と類似する点も指摘されている。

『延喜式』記載内容との矛盾

『延喜式』「諸陵寮」には、「三嶋藍野陵磐余玉穂宮御宇継体天皇在攝津國嶋上郡兆域東西三町南北三町」とあり、継体天皇陵が現存しているのは、島下郡(嶋下郡)であることから地理的な問題が発生する。

この背景には、島上郡にあった「藍野」の地名が律令制導入の早い段階に事実上消滅したこと。代わって、島下郡の「阿威」の地名が平安時代初期から使われ出したことが考えられる。つまり「三嶋藍野陵」が治定された幕末当時、継体天皇陵を地名で判断する限りは島下郡阿威しか該当しなかったのである。

今城塚古墳について

今城塚古墳

【古墳名】 今城塚古墳
【古墳の形状】 前方後円墳
【墳丘の全長】 190メートル
【墳丘の最大幅】 140メートル
【後円部の高さ】 9メートル
【前方部の高さ】 12メートル
【所在地】 大阪府高槻市郡家新町

今城塚古墳の特徴

今城塚古墳の形状

前方後円墳は、後円部よりも前方部の裾が大きく開いた形状をしている。

山背国の宇治二子塚古墳(五ヶ庄宇治二子塚古墳)は、今城塚古墳と同型で、その大きさも今城塚古墳を約3分の2の大きさにしたものと言われる。

宇治二子塚古墳
(宇治二子塚古墳)

今城塚古墳の三基の石棺

今城塚古墳からは、破片となった石棺が発見されている。それらを復元すると、3基の石棺となる。

注目されるのは、それらの3基の石棺の石材は全て異なると言うことである。「大和国二上山産の石材」・「播磨国龍山産の石材」・「肥後国馬門産の石材」の三種類である。

今城塚古墳を継体天皇の真陵とした場合、石棺1基は継体天皇の棺として、残る2基の石棺の被葬者については不明である。しかし、『日本書紀』は『百済本記』からの引用と言う形で、継体天皇の崩御に関して次の異伝を載せている。

日本の天皇及び太子・皇子、倶に崩薨りましぬといへり

(『日本古典文學大系68 日本書紀 下』 坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

石棺の数から見ると異伝と合致していると言える。ただし、石棺が同時に納められたものであるか?どうか?は不明である。しかしながら、ここからは、日本古代史の謎「二朝併立」問題も見えて来る。

今城塚古墳と継体天皇陵の位置関係

継体天皇陵と今城塚古墳との位置関係

今城塚古墳は、継体天皇陵の東、約1500メートルほどのところに位置する。

今城塚古墳と継体天皇

今城塚古墳から出土した埴輪の年代測定の結果、築造年代は、6世紀前半から中頃ぐらいが推測される。

継体天皇の崩御が、6世紀前半であるので、今城塚古墳を継体天皇の真陵としても大きな矛盾の無い前方後円墳である。

このため現在では、多くの研究者が今城塚古墳を継体天皇の真陵と見做している。

継体天皇陵の年表

<継体天皇25(531)年>
2月7日、崩御。

<継体天皇25(531)年>
12月5日、藍野陵に埋葬。

<弘安11(1288)年>
2月25日、銅鏡等が盗掘される。

<文久3(1863)年>
「文久の修理」が完了する。経費は、500両。

<平成13(2001)年>
今城塚古墳から大量の埴輪が発掘される。

<平成23(2011)年>
4月、高槻市立今城塚古代歴史館が開館。

継体天皇陵の地図

継体天皇陵地図