目次
知太政官事について
【表記】 | 知太政官事 |
---|---|
【読み】 | ちだじょうかんじ |
知太政官事とは
奈良時代に設置された令外官。
この職に就任しているのは、天武天皇皇統の皇親4人に限定されており、天武天皇系の皇子(親王・王)に拠り政務を統括した上で、政治の安定を目的とする職だったと見られる。
忍壁皇子と穂積皇子は、持統太上天皇崩後の文武天皇の補佐的な位置付けであったと見受けられ、また、舎人皇子は藤原不比等の死後の混乱に対処するため、鈴鹿王は藤原四兄弟の死後の政務に当たったと見られる。
なお、知太政官事は職務としては、太政大臣と同様とみなされているが、知太政官事が初めて設置された当初、朝堂における最高実力者は藤原不比等であり、その存在を上回る職務権限を与えることは困難であったと思われる。
また、官職名も「太政大臣」の場合には皇太子が就任した前例(大友皇子)があったので、皇位継承面での混乱を避けるために「知太政官事」とされたらしい。
つまり、皇子(親王)を太政大臣に任ずることは「皇嗣(次期天皇)」として利用される危険性があったために、わざわざ知太政官事として任命することで「皇嗣」に該当しないことを内外に示したものと見られる。
知太政官事の年表
<大宝2(702)年>
12月22日、持統太上天皇、崩御。
<大宝3(703)年>
正月20日、忍壁皇子が初めて太政官を統括する職として就任。
<慶雲2(705)年>
9月5日、穂積皇子が知太政官事に就任。
<慶雲3(706)年>
2月7日、知太政官事・穂積皇子の季禄は右大臣に準じると規定。
<慶雲4(707)年>
6月15日、文武天皇、崩御。
7月17日、元明天皇、即位。
<霊亀元(715)年>
9月2日、元明天皇、譲位。元正天皇、即位。
<養老4(720)年>
8月3日、右大臣・藤原不比等、死去。
8月4日、舎人皇子が知太政官事に就任。
<天平9(737)年>
4月17日、参議・民部卿・藤原房前、死去。
7月13日、参議・兵部卿・藤原麻呂、死去。
7月25日、左大臣・藤原武智麻呂、死去。
8月5日、参議・式部卿兼大宰帥・藤原宇合、死去。
8月28日、鈴鹿王(父・高市皇子)が知太政官事に就任。
歴代知太政官事
【名前】 | 【就任時期】 | 【離任時期】 |
---|---|---|
忍壁皇子(刑部親王) | 大宝3(703)年正月20日 | 慶雲2(705)年5月7日 |
穂積皇子(穂積親王) | 慶雲2(705)年9月5日 | 霊亀元(715)年7月27日 |
舎人皇子(舎人親王) | 養老4(720)年8月4日 | 天平7(735)年11月14日 |
鈴鹿王 | 天平9(737)年8月28日 | 天平17(745)年9月4日 |
忍壁皇子の政体
《忍壁皇子の就任時の政体》 天皇 文武天皇 知太政官事 忍壁皇子 左大臣 不在 右大臣 不在 大納言 藤原不比等 石上麻呂 紀麻呂
忍壁皇子、就任の背景
左大臣が不在の状態で右大臣・安倍御主人の死去に伴い右大臣まで不在となった非常事態の状況下で、忍壁皇子が知太政官事に任じられた。
穂積皇子の政体
《穂積皇子の就任時の政体》 天皇 文武天皇 知太政官事 穂積皇子 左大臣 不在 右大臣 石上麻呂 大納言 藤原不比等 紀麻呂 大伴安麻呂
穂積皇子、就任の背景
中納言が設置された直後に穂積皇子が知太政官事に任じられ「律令体制」確立の大役が託された。
舎人皇子の政体
《舎人皇子の就任時の政体》 天皇 元正天皇 知太政官事 舎人皇子 左大臣 不在 右大臣 不在 大納言 長屋王
舎人皇子、就任の背景
右大臣・藤原不比等が死去したことで左右大臣不在となり、政体の安定のため舎人皇子が知太政官事に任じられた。
鈴鹿王の政体
《鈴鹿王の就任時の政体》 天皇 聖武天皇 知太政官事 鈴鹿王 左大臣 不在 右大臣 不在 大納言 橘諸兄
鈴鹿王、就任の背景
藤原四兄弟(藤原武智麻呂・藤原房前・藤原宇合・藤原麻呂)が相次ぎ死去する非常事態に陥り、参議であった鈴鹿王が知太政官事に任じられた。