仁賢天皇2(489)年

時代

古代。

天皇

【代数】 第24代
【天皇名】 仁賢天皇

政体

【大臣】 平群真鳥
【大連】 不在

仁賢天皇2(489)年の出来事

出来事
  • 仁賢天皇2(489)年
    9月
    難波小野王、自害。

まとめ

難波小野王は、オアサヅマワクゴノスクネ大王(第19代允恭天皇)の血統と伝えられる。

先の大王(天皇)の后として立てられたのが、難波小野王であった。

その難波小野王は、オケ王子(億計皇子=仁賢天皇)が弟のヲケ大王(弘計皇子=第23代顕宗天皇)の日嗣(皇太子)であった時に、オケ王子に対して随分と無礼な振る舞いをしていた。

このため、大王となったオケ王子から報復されることを恐れて自害したのである。

具体的には、オケ王子が瓜を食べようとしたものの刀子が無かった。その様子を見たヲケ大王が気の毒に思い、自分の手元にあった刀子を取るや、難波小野王にオケ王子へ手渡すように命じた。しかし、難波小野王は、オケ王子の目の前に行ったものの突っ立ったままで刀子を手渡さず皿に投げ置いた。

しかも、酒を盃に汲むや、これも突っ立ったまま、受け取りに来るようにオケ王子を呼びつけたのであった。

この物語だけだと「弟嫁にいびられる兄」と言うホームドラマである。

しかし、難波小野王と仁賢天皇の系図を見てみると非常に興味深いものが両者の関係に窺える。まず、難波小野王の系図である。

《難波小野王の系図》

允恭天皇━雄略天皇
      │
      ┝━━━磐城皇子━丘稚子王━難波小野王
      │
     吉備稚媛

次に、仁賢天皇の系図である。

《仁賢天皇の系図》

履中天皇
 │
 ┝━━━磐坂市辺押磐皇子
 │    │
葛城黒媛  │
      │
      ┝━━━━━━┳忍海飯豊青尊
      │      ┣ヲケ皇子(顕宗天皇)
      │      ┗オケ皇子(仁賢天皇)
      │
     葛城荑姫

これらの系図で一目瞭然のように、それは「非葛城氏系(難波小野王)」と「葛城氏系(仁賢天皇)」の関係である。

しかも、オケ皇子からすれば、父(磐坂市辺押磐皇子)の仇のオオハツセワカタケル大王(第21代雄略天皇)の末裔が難波小野王なのである。

『日本書紀』が記すよりも、実は、もっとドロドロとしたものが蠢いていたのではないかと推測される「難波小野王の自害」と言う出来事のあった年が、仁賢天皇2(489)年だったと言える。