結城朝光についての小ネタ
【時代】 | 鎌倉時代 |
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武家のプライド
源実朝が暗殺されて以来、将軍家に連なる清和源氏として足利氏の存在があった。
足利義氏は、北条泰時の娘と婚姻し、北条氏の得宗とも接近することによって、自らを鎌倉御家人の中でも上位と自負していた。
そこで結城朝光への書状に、「結城上野入道殿、足利政所」と書いた。
書状の流儀
このように宛所に直接相手の名前を名指しした上で、しかも差出に自分の本名を書かないと言うのは、格上の者が格下の者に対して行うことで、相手を極めて見下したものであった。
足利氏は結城氏より上位の家柄か
即ち、足利義氏は、御家人に中でも古参である結城朝光に対して、御家人内における自らの立場を、誇示しようとしたのである。
結城朝光の返書
結城朝光は、幕府草創以来の御家人で、御家人の中でも重きをなす一人であった。
足利義氏は、その朝光に、自らの出自を誇ったのである。この義氏からの礼を欠く書状に対して、朝光は、すぐさま返事を送った。
その書状には、「足利左馬頭入道殿、結城政所」と書かれてあったのである。
源頼朝の遺言
結城朝光からの書状を見た足利義氏は、色を変えて怒り、早速、執権の北条時頼に対して、朝光の無礼を訴え出た。
義氏の訴えは、足利氏は源頼朝の一族であり、朝光は、その頼朝の家臣に過ぎない存在であるから、足利氏に対しても臣下の礼を取るのが常識であり、このような書状は無礼であると言うものであった。
そこで時頼が、朝光に問い質すと、朝光は一通の書状を差し出した。
その書状は、源頼朝が、朝光に対して書き遺したもので、「将軍家の第一の家は北条義時の北条家」とあり、続けて、「足利義兼の足利家と結城朝光の結城家は同等とする」とあった。
このため時頼は、この書状を幕府の礼の礎となすために手元に残し、自ら筆を取り頼朝の書状を一字一句違わぬように書き写して、写本の方を朝光に返した。
時頼は、義氏を宥めたが、このことによって、清和源氏の足利氏は、藤原秀郷流の結城氏と、同格と言う認識が、御家人の間に広がることとなる。
義氏にとっては薮蛇であった。
なお、結城朝光は、建長6(1254)年2月に没するが、奇しくも同年11月に足利義氏もまた没している。