阿野時元について
【名前】 | 阿野時元 |
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【読み】 | あののときもと |
【別名】 | 阿野隆元(『尊卑分脈』) |
【別名読み】 | あののたかもと |
【通称】 | 阿野冠者・阿野三郎(『尊卑分脈』)・阿野次郎冠者(『承久記』) |
【生年】 | 不明 |
【没年】 | 承久元(1219)年 |
【時代】 | 鎌倉時代 |
【父】 | 阿野全成 |
【母】 | 阿波局 |
【異母兄弟姉妹】 | 阿野頼保・阿野頼高・阿野頼全・道暁・阿野頼成・女子(四条隆仲室)・女子(藤原公佐室) |
【配偶者】 | 不明 |
【子】 | 又三郎義継(『尊卑分脈』) |
【家】 | 阿野家 |
【氏】 | 清和源氏 |
【姓】 | 朝臣 |
阿野時元の生涯
阿野時元の生い立ち
阿野時元は、阿野全成の四男として誕生する。
軍記物の『承久記』では、
『故右大将ノ舎弟、阿野ノ禪師の次男也』
(『承久記』国立国会図書館デジタルコレクション)
として、時元は、全成の次男と言う扱いをされている。
時元の父の全成は、源義朝の七男であり、源頼朝の異母弟である。
《阿野全成系図》 源義朝━━頼朝 │ ┝━━┳全成 │ ┗義経 │ 常盤御前
時元の母は、北条時政の娘の阿波局。
時元が誕生した年は不明。
阿波局が、建久3(1192)年に、頼朝の三男である千幡の乳母になっていることから、時元も、その時期に乳飲み児であった可能性が考えられる。
また、時元の名も北条時政からの偏諱であろうと推測される。
阿野時元と阿野全成
北条時政の娘を妻とした阿野全成は、時政の影響下に置かれるようになって行く。
このことも原因となり、比企氏を重用し、北条氏を忌避する2代将軍源頼家との間で確執が生じる。
遂に、阿野時元の父である全成は、突如、謀反の容疑で頼家に捕縛され、常陸国へと追放され、下野国で殺害されてしまう。
『阿野法橋全成、依有謀反之聞』
(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
『八田知家奉仰、於下野國誅阿野法橋全成』
(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
その上、全成の子で、時元には異母兄弟に当たる頼全が京の東山にある延年寺で殺害される。
『在京御家人等、於東山延年寺窺幡(播)磨公頼全、令誅戮之云々』
(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
(東山 延年寺跡)
また、全成の妻であった阿波局も事情聴取のため、頼家に拠って身柄を確保されかけたために、それを北条政子が阻止すると言う事態に陥った。
『彼妾阿波曲官仕殿内歟、早召給、有可尋問子細云々』
(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
当時、恐らく10代前半だったと思われる時元は、将軍頼家に拠って父の命を奪われ、母の命も危機に晒される恐怖と非情な現実を突き付けられた。
この出来事は、感受性の強い多感な時期の時元に、強烈な心象となって残ったに違い無い。
だが、北条時政が、比企能員を謀殺し、比企氏一族も葬り去ったことで、父の仇である頼家も将軍職を奪われ幽閉された挙句、翌元久元(1204)年7月には殺害されてしまった。
時元は、全成の死後、全成の領地であった駿河国駿河郡阿野荘で過ごしたようである。
(駿河国駿河郡阿野荘)
その時元が、頼家のことをどのように思っていたのかを伝える史料は伝わっていない。
阿野時元の武装蜂起
駿河国で暮らす阿野時元の人生を大きく変える出来事が起こる。
承久元(1219)年正月、3代将軍源実朝が、2代将軍源頼家の遺児・公暁の手で暗殺されたのだ。
(源実朝が暗殺された鶴岡八幡宮)
将軍生母の北条政子と幕府執権の北条義時は、実朝存命中から新将軍を天皇家(皇室)の親王から迎える手はずを整えていたが、この動きに不満を持つ者も少なからずいた。
その不満分子たちの中から、
『手次ギ能源氏ナレバ、是コソ鎌倉殿ニモ成給ハンズラネント咍リアヘリ』
(『承久記』国立国会図書館デジタルコレクション)
として、鎌倉と縁も所縁も無い親王を新将軍として京から迎えるよりも、正統な清和源氏の血統である時元を「鎌倉殿」、即ち、新将軍に就けようとする動きが出て来たのである。
ここに、時元は、朝廷から「東国(関東)の管領」に任じるとする宣旨を賜ったとして挙兵する。
『是申賜宣旨、可管領東國之由相企云々』
(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
19日、義時は自身に私的に仕える側近(御内人)である金窪行親に、駿河国内の御家人を動員させて鎮圧に向かわせる。
『承久記』は、駿河国のみならず、伊豆国内の御家人も動員されたとしている。
『伊豆・駿河ノ勢ヲ以テ被攻ケリ』
(『承久記』国立国会図書館デジタルコレクション)
いずれにしても、圧倒的な軍事力が投入されたわけで、この軍勢を相手に時元は果敢に応戦したものの兵力差は如何とも出来ず敗北する。
『時元并伴類皆悉敗北也』
(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
追い込まれた時元は、
『安(阿)野自殺』
(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
『散々ニ戰ヒテ、自害シテ失ヌ』
(『承久記』国立国会図書館デジタルコレクション)
と記されるように、自ら死を選んだ。
ここに、清和源氏と、幕府執権を務める北条氏との間に生まれた血統は絶える。
阿野時元のまとめ
阿野時元は、清和源氏の後継者として語られることは少ない。
しかし、時元が日本史に名を残すこととなったのは、時元が「清和源氏」の正統な後継者と言う立場としての存在であったが故であった。
源実朝が暗殺されてから僅か2週間ほどで、時元は、「清和源氏」として「鎌倉殿」を目指して武装蜂起する。
ただ、それは、時元の意志と言うよりも、むしろ北条氏の政治運営に不満を持つ者に担ぎ出されたものであったとも言える。
注目されるのは、
『管領東國』
(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
東国、即ち、関東は、時元が管領することを朝廷に拠って認められたとする宣旨を得たとして挙兵したことで、時元の御旗は「朝廷」であり、「院」であったことにある。
もちろん宣旨が実際に出された形跡は無い。
挙兵した時元を鎮圧するため、執権の北条義時が派遣したのが、義時と個人的な主従関係にある御内人たる金窪行親であった。
この行親は、義時が実朝に対して御家人に取り立てるように要請したものの、実朝から却下された人物であって、言い換えれば、「清和源氏」「朝廷」「院」が時元側の名分として複雑に絡むことで、本来は将軍に仕える存在である御家人を鎌倉から時元の鎮圧のためには動員出来なかったとも考えられる。
そうした場合、時元の挙兵した際の構図は「清和源氏対北条義時」だった。
時元の挙兵は「清和源氏」が「将軍」あるいは「鎌倉殿」として、鎌倉幕府に君臨する最期の可能性だったのかも知れない。
しかし、武運の尽きた時元は遂に敗れ去ってしまう。
なお、同じ『承久記』でも前田本では、
『しばらく防ぎたゝかひけれども、無勢なればうたれぬ』
(『承久記 前田本』国立国会図書館デジタルコレクション)
として、時元は、大軍勢の幕府軍を相手に奮戦したものの討ち取られたとする。
平安時代に確立された「天皇家(皇室)の武力装置たる清和源氏」の棟梁になろうと、阿野時元が立ち上がったのだとしたら、この『承久記 前田本』に描かれた時元の最期の姿の方が相応しいように思える。
阿野時元の系図
《阿野時元系図》 常盤御前 │ │ ┌───────┐ │ │ │ │ ┝━━━時元 │ │ │ │ ┝━━┳全成━━┳頼保 │ │ ┃ ┣頼高 │ │ ┃ ┗頼全 │ │ ┃ │ │ ┣義円 │ │ ┗義経 │ │ │ 源義朝━━頼朝 │ │ │ ┝━━┳頼家 │ │ ┗実朝 │ │ │ 北条時政┳政子 │ ┣義時 │ ┣時房 │ ┗阿波局 │ │ │ └───────┘
阿野時元の墓所
阿野時元の墓所は、静岡県沼津市の大泉寺にある。
(大泉寺)
時元のものと伝わる墓石が、父の阿野全成と伝わる墓石と並んで建てられている。
この大泉寺は、阿野荘における全成の屋敷跡と言われており、鎌倉時代から連綿と、時元は父の全成と共に、この場所から世の栄枯盛衰を眺めているのであろうか。
阿野時元の年表
- 建久3(1192)年8月9日阿波局、千幡の乳母となる。
- 建仁3(1203)年5月19日阿野全成、捕縛される。
- 5月20日源頼家、北条政子に阿波局の身柄引き渡しを要求。
- 5月25日全成、常陸国へ流される。
- 6月23日全成、殺害される。
- 7月16日頼全、殺害される。
- 9月7日千幡に征夷大将軍宣下。
- 元久元(1204)年7月18日頼家、殺害される。
- 承久元(1219)年正月27日源実朝、鶴岡八幡宮で暗殺される。
- 2月11日武装蜂起。
- 2月19日北条義時、鎮圧部隊を派遣。
- 2月22日自害。