中井王について
【名前】 | 中井王 |
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【読み】 | なかいおう |
【生年】 | 不明 |
【没年】 | 不明 |
【時代】 | 平安時代 |
【位階】 | 正六位上 |
【官職】 | 豊後介 |
【父】 | 不明 |
【母】 | 不明 |
【兄弟姉妹】 | 不明 |
【配偶者】 | 不明 |
【子】 | 不明 |
中井王の生涯
中井王の生い立ち
中井王は、皇族であるが、その父母等、確かな系譜は一切不明。
大蔵氏の伝承中に、
『天武皇子高市皇子の孫、鈴鹿王の子中井王』
(『姓氏家系大辞典』国立国会図書館デジタルコレクション)
とあるが、天平17(745)年に没した鈴鹿王の子が、その100年後の承和9(842)年にまで生存し、なおかつ旺盛な活動をしていた可能性は極めて低い。
『豊日志』に拠ると、中井王は正八位上にある時、平城天皇の大同年間(806年から810年)に、上国に規定される豊後国の介(次官)に任じられたとする。
しかし、この豊前介の本来の相当官位は従六位上であることから見て、正八位上でありながら介に任じられたとするのは不自然である。
しかも、その後、中井王は、承和年間(834年から848年)中に豊後介の任期が切れても、なお、豊後国に居続けたとしている。
正史『続日本後紀』に拠れば、中井王は、正六位上でありながら豊後介であったとする。
従六位上の職である介に、正六位上まで進んでいながらも就いていることから見ても、中井王は、当時の皇統からはかなり距離を置いた系譜に位置する人物だったと見られる。
なお、正六位上でありながら介でしかないことが奇異に受け取られるためか、
『豊後ノ國司ニ中井王ナルモノアリ』
(『日田歴史』国立国会図書館デジタルコレクション)
と、中井王を国司とするものもあるが、正史『続日本後紀』は介としている。
豊後国日田郡に、中井王は私邸を置き、職権等を利用して私営田を諸郡各地に所有していた。
『私宅在日田郡。及私營田在諸郡』
(『續日本後紀』国立国会図書館デジタルコレクション)
(豊後国日田郡)
豊後国の国府は、同国大分郡に設置されており、わざわざ大分郡から離れた日田郡に私宅を置いたのは、早い時期から中井王が公務以外の目的を有していたためではないかと思われる。
中井王の地回り
中井王は、豊後国内のみならず、近隣の筑後国・肥後国等の九州北中部を、家人を引き連れて徘徊した。
その上で、各地の郡司等の役人に対して暴行を加え、真面目に働く百姓を恫喝し武力を誇示する等して、役人の業務や百姓の農業を妨害していた。
『威陵百姓。妨農奪業』
(『續日本後紀』国立国会図書館デジタルコレクション)
恐らくは、郡司等には仕事をさせる代わりに、百姓には農業経営を行えるように、それぞれ「用心棒代」を要求し、加えて、百姓には中井王の私営田の耕作を強要していたものと思われる。
中井王の家人は、犯罪行為を行う暴力集団であったと言える。
だが、その一方で公職に就く皇親たる中井王の家人でもあった。
このように、中井王が率いる集団は、極めて黒に近いグレーな集団だったのである。
中井王の高利貸し
中井王は、豊後国内で、百姓に対して私的に貸付を行っていたことが判っている。
そして、税の徴収を行う際に、百姓に対して容赦無い態度を取った。
それは、本来、国税として徴収される庸調の未納分に加えて、私的貸付分にも利息を不当に上乗せして強制的に徴収する等して、暴利を得ていたのである。
『倍取其利』
(『續日本後紀』国立国会図書館デジタルコレクション)
恐らく、九州各地での地回りの様子からしても、豊後国内だけで無く、九州各地で同様の高利貸しを行い暴利を得て私腹を肥していたものと思われる。
このため、百姓は困窮し、百姓からの納税も中井王に中抜きされる状態であったことから、中井王の存在は、九州各地を疲弊させていたことが判る。
中井王、告発される
豊後国から大宰府に対して、遂に中井王の悪行が報告された。
これを受けて、大宰府から中央の太政官に中井王の悪事が告発される。
大宰府からの告発内容は、中井王の地回りや高利貸しの悪行についてであり、その処分として、延暦16(797)年4月29日格の適用を求めるものであった。
『望請。准據延暦十六年四月廿九日格旨。令還本云』
(『續日本後紀』国立国会図書館デジタルコレクション)
このため太政官で審議した結果、延暦16年4月29日格を以って、中井王の処分を下す。
『解任之人王臣子孫之徒。結黨群居同惡相濟。侫媚官人威陵百姓。妨農奪業爲蠧良深。冝嚴撿括勤還。本郷』
(『類聚三代格』国立国会図書館デジタルコレクション)
こうして、太政官からの通達が到着し、
『大宰府ノ兵來リテ之ヲ捕ユル』
(『日田歴史』国立国会図書館デジタルコレクション)
こととなったと思われる。
そして、中井王は、生まれ故郷へと強制送還に処された。
『宜身還本郷』
(『續日本後紀』国立国会図書館デジタルコレクション)
中井王の生まれ故郷がどこであるのかは不明である。普通に考えると、平安京と思われるが、地方勤務となった皇親が地方で儲けた子であったのかも知れず、そうなると、どこか別の地方であったのだろう。
ただし、この太政官が下した中井王への処分は「恩赦」が与えられたものであった。
この年、即ち、承和9(842)年7月、嵯峨太上天皇が危篤の状態に陥った。
そこで、仁明天皇は、嵯峨太上天皇の病気平癒を祈願して、7月14日に恩赦を発布している。
内容は、
『自承和九年七月十四日昧爽以前。大辟以下。罪無輕重。已發覺。未發覺。已結正。未結正。繁囚見徒。私鑄錢。八虐。強竊二盗。常赦所不免。咸皆赦除』
(『續日本後紀』国立国会図書館デジタルコレクション)
と言うものであった。
この恩赦に従い、中井王の罪は軽くされ、生まれ故郷への強制送還で済まされた。
この恩赦には、
『敢以赦前事相告言者。以其罪罪之』
(『續日本後紀』国立国会図書館デジタルコレクション)
と言う付帯条項があり、恩赦実施以前の罪について告発したものは、その罪を告発者自身が蒙るものと規定されている。
このことから、中井王の犯罪行為は、告発の間際まで行われていたと見られる。
ただ、嵯峨太上天皇は、恩赦が実施された翌日に没しており、結局、この恩赦は犯罪者のみが得をすると言う恩赦であった。
興味深いのは、正史である『続日本後紀』は、この中井王の犯罪行為を大宰府に訴え出た豊前国の国司の名前を記していないのである。
後年、中井王の一族や家人たちからの報復を受けないように配慮したのであろうか。
中井王とは
中井王は、皇親であること以外、その素性はよく判らない。
それでも、中井王が皇親であっても、血縁的には当時の天皇家(皇室)とはかなり遠く、立身出世も望めない存在であったことは疑いようが無い。
しかし、平安京から遠く離れた九州であれば、そのような中井王でも「貴種」として迎えられたものと容易に想像される。
このことが、中井王に「自力」を以ってして自らの「小王朝」を九州に築こうとさせた動機となったのではあるまいか。
そして、家人を武装させ、自らの武力装置とすることで地域を圧倒し富を集積したのであろう。
やがて、地方における「貴種」である中井王の下には各地の荒くれ者が加わり、それが、豊後国のみならず、筑後国・肥後国等への進出に繋がる要素となった。
この構図は、関東でも見られた構図である。
九州における「貴種」として、中井王は君臨したものの、「法」の前に敗れ去った。この部分だけは、関東の「貴種」とは趣きが大きく異なる。それは、「貴種」とは言え、皇統から遠く離れた皇親の悲哀とも取れる。
その後、故郷に強制送還された中井王がどうなったのかは定かでは無い。
ただ、仁寿3(853)年正月に、従五位上へ昇進した皇親の中に、
『従五位上。正六位上正岑王。仲井王。眞貞王等』
(『日本文德天皇實録』国立国会図書館デジタルコレクション)
と、「正六位上の仲井王」なる人物が存在している。
さらに、斉衡3(856)年11月には、
『攝津守従五位上清原眞人益吉。散位従五位下仲井王等賜姓文室眞人』
(『日本文德天皇實録』国立国会図書館デジタルコレクション)
と、「文室真人」の姓を下賜され、臣籍降下している。
この仲井王が、中井王と同一人物であるか否かは不明である。
平安時代前期に、地方における「貴種」として、自らの私的武力装置を駆使して、「人」と「富」を支配下に置いた中井王は、公家社会の次に来るべき武家社会を先取りしていたと言えるのかも知れない。
このためか、豊後国の有力な土豪や地侍には、中井王の末裔を自負する者がある。
しかしながら、普通に平穏な生活を営む人民にとっては、中井王の存在は、甚だ迷惑な存在であったことだけは間違い無い。
中井王の系図
《中井王系図》 舒明天皇 │ ┝━━┳天智天皇┳弘文天皇 │ ┃ ┗志貴皇子━光仁天皇━桓武天皇┳平城天皇 │ ┃ ┣嵯峨天皇━仁明天皇━文徳天皇 │ ┃ ┣淳和天皇 │ ┃ ┗葛原親王━高見王━━高望王 │ ┗天武天皇┳高市皇子━鈴鹿王━━中井王 │ ┗草壁皇子━文武天皇━聖武天皇━孝謙天皇 │ 皇極天皇 ※「豊日志」に拠る(『姓氏家系大辞典』国立国会図書館デジタルコレクション)
中井王の年表
- 承和9(842)年8月29日強制送還される。