北条政範について
【名前】 | 北条政範 |
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【読み】 | ほうじょうまさのり |
【通称】 | 左馬権助・遠江左馬助 |
【法名】 | 未詳 |
【生年】 | 文治5(1189)年 |
【没年】 | 元久元(1204)年 |
【時代】 | 鎌倉時代 |
【位階】 | 従五位下 |
【官職】 | 左馬権助 |
【父】 | 北条時政 |
【母】 | 牧ノ方 |
【兄弟姉妹】 | 女子(平賀朝雅室)・女子(宇都宮頼綱室) 等 |
【異母兄弟姉妹】 | 北条政子(源頼朝室)・北条義時・北条時房・阿波局(阿野全成室)・女子(足利義兼室)・女子(畠山重忠室) 等 |
【配偶者】 | 無し |
【子】 | 無し |
【家】 | 北条家 |
【氏】 | 桓武平氏 |
【姓】 | 平朝臣 |
北条政範の生涯
北条政範の生い立ち
北条政範は、北条時政の子として生まれる。
その生年は没年から逆算して、文治5(1189)年に誕生したことになる。
母は、牧宗親の娘の牧ノ方である(牧宗親は、池禅尼の兄弟姉妹に当たる)。
政範の同母姉妹には、平賀朝雅の室や、宇都宮頼綱の室等がいる。
異母兄弟姉妹には、北条政子・北条義時・北条時房等がいる(北条宗時は、政範が誕生した時には既に故人であった)。
政範の幼名は伝わっていない。また、元服時期も不明である。
元久元(1204)年には、従五位下に叙され、左馬権助の職に任じられている。
北条政範、上洛する
鎌倉幕府第3代将軍となった源実朝の正室に、坊門信清の息女を迎えることとなる。
そこで、元久元(1204)年10月、坊門信清の娘を京都へ迎えに出向き、鎌倉に下向するまでの護衛に当たる見た目の麗しい御家人15人が選抜される。
『坊門前大納言息女、爲将軍家御御臺所依可令下向給、爲御迎人々上洛』
(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
その15人の御家人に選ばれたのは、結城朝光・千葉秀常・畠山重保・和田朝盛・土肥惟平・筑後知尚等で、北条政範は、それらの陣容の筆頭格であった。
しかし、京への上洛の道中で、政範は体調を崩す。
11月3日になって、京へ到着するが、その頃には、政範の容態は悪化し危篤となっていた。旧暦の11月であることから、風邪等から肺炎を誘発したことも考えられる。
4日、平賀朝雅と畠山重保が酒宴の席で口論を起こす。
その翌日の5日、政範は、鎌倉から遠く離れた京で亡くなる。
『従五位下行左馬權助平朝臣政範卒』
(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
時に政範は、満15歳であった。
政範の従者が、11月20日、鎌倉へ戻り、政範の最期を、時政と牧ノ方に報告している。
政範の死から約1ヶ月後の12月10日、坊清信清の娘が将軍家へ輿入れするため鎌倉に向けて出発する。
(鶴岡八幡宮)
その一行の中に、本来であれば颯爽と先鋒を務めるはずの政範の姿は無かった。
北条政範のまとめ
北条政範は、若年であったが、北条氏の中では、異母兄の北条義時・北条時房等を押し退け、嫡流の地位にあったと考えられる。
その理由としては、年齢的に見て元服間も無い時期と考えられる元久元(1204)年に、従五位下・左馬権助であることが挙げられる。
また、義兄が平賀朝雅である。朝雅は清和源氏新羅三郎義光流の血筋であり、かつ源頼朝の養猶子で、京都守護の任にあった。
まさに、次代の鎌倉の中心人物となることを確約されていたのが、政範なのである。
それ故に、政範が京で短い寿命を終えたと言う報告を聞いた北条時政と牧ノ方の悲しみと嘆きは大きいものであった。
『父母悲歎更無可比』
(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
また、朝雅と畠山重保の口論は、一般には酒宴での些細な出来事が原因とされている。
しかし、実際は、道中で容態の悪化した政範の治療方法や養生の仕方等について、朝雅が、政範に同行して来た重保に対し、糾問、あるいは叱責したことが発端だったのではないだろうか。
朝雅にとって政範は、可愛い義兄弟であると同時に、この先、鎌倉での自分の擁護者となるはずの存在なのである。朝雅をして感情の爆発を招いてもおかしくは無い。
朝雅が重保と諍いを行った翌日に、政範が没しているのは象徴的と思える。
政範を失った時政と牧ノ方は、重保と、その父である畠山重忠の排斥に動き、遂には、朝雅の将軍擁立へと突っ走ることとなる。
歴史に「もしも」は禁句であるが、しかし、もしも北条政範が長い寿命を得ていたら、鎌倉時代は、また違ったものとなっていたのかも知れない。
北条政範の系図
《北条政範系図》 北条時政┳宗時 │ ┣政子 │ ┣義時 │ ┗時房 │ ┝━━┳政範 │ ┗女子 │ │ 牧宗親━━━牧ノ方 │ │ 平賀義信 │ │ │ ┝━━━朝雅 │ 比企掃部允 │ │ │ ┝━━━┳女子 │ ┗能員 │ 比企尼
北条政範の墓所
北条政範の墓所については詳細は不明である。
『吾妻鏡』には、ただ
『葬東山邊』
(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
と記されるのみである。
この「京都の東山辺り」が、どこを指すのかがはっきりしない。
京の葬送の地と言えば、東山の鳥辺野である。
また、寺院の山号で「東山」と言えば、源頼家が創建した建仁寺が該当する。
(建仁寺)
さらに、義兄の平賀朝雅が所縁の寺院で供養した可能性も考えられる。
ただ、北条時政が、自身が建立した願成就院で政範の菩提を弔ったであろうことは間違い無いと思われる。
(願成就院)
北条政範の年表
- 文治5(1189)年誕生。
- 元久元(1204)年10月14日鎌倉を出発。
- 11月3日上洛。
- 11月4日平賀朝雅と畠山重保が口論となる。
- 11月5日京で死去。
- 11月6日東山にて送葬。
- 11月13日政範死去の一報が鎌倉に届く。