目次
大姫について
【名前】 | 大姫(実名は不明) |
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【読み】 | おおひめ |
【通称】 | 大姫 |
【別称】 | 姫君・姫公 |
【生年】 | 不明(治承2年説・治承3年説あり) |
【没年】 | 建久8(1197)年 |
【時代】 | 平安~鎌倉時代 |
【父】 | 源頼朝 |
【母】 | 北条政子 |
【同母弟妹】 | 源頼家・源実朝・三幡(乙姫) |
【異母弟】 | 貞暁 |
【婚約者】 | 源義高(木曾義高) |
【家】 | 源家・鎌倉将軍家 |
【氏】 | 清和源氏(河内源氏) |
【姓】 | 朝臣 |
大姫の生涯
大姫の生い立ち
大姫は、『平治の乱』の結果、流刑となり伊豆に流されていた源頼朝を父として誕生する。
大姫が誕生した年は、治承2(1178)年のこととも、治承3(1179)年のこととも言われるが、はっきりしない。
母は、北条時政の娘・北条政子である。
頼朝の流刑地・蛭ヶ小島で、流人であった頼朝と政子が育んだ愛の結晶が大姫であった。
(蛭ヶ小島)
「大姫」とは長女ぐらいの意味合いでしか無く、大姫の実名は伝わっていない。
同母弟に、源頼家・源実朝がいる。また、同母妹に、三幡(乙姫)がいる。
頼朝と政子にとって、流人から打倒平家の旗揚げを経て源平合戦を迎えると言う動乱期に二人の絆となったのが大姫であったと言える。
頼朝が鎌倉に大倉御所を造営すると、政子と共に入る。
(大倉御所)
大姫と源義高
寿永2(1183)年、源頼朝と対立していた木曾の源義仲との間に和睦が成立する。
この和睦成立の条件として義仲は嫡子である源義高を、鎌倉に人質として送るのである。
《大姫と源義高の関係図》 北条政子 │ ┝━━━━━┳大姫 │ ┣頼家(第二代将軍) │ ┗実朝(第三代将軍) │ 源為義━┳義朝┳頼朝(初代将軍) ┃ ┣範頼 ┃ ┣義経 ┃ ┗女子 ┃ ┃ ┣義賢━義仲━━━━━━義高 ┗行家
頼朝は、この義高を大姫の許婚とする。
ここに大姫の名は正史に記されることとなるが、それはまた悲劇の始まりでもあった。
なお、『尊卑分脈』には、
『木曾義仲朝臣清水冠者義基室』
(『尊卑分脉』国立国会図書館デジタルコレクション)
とされている。
大姫の享年を20歳とする説に従うと、この当時の大姫は、4、5歳であり、男女の仲を伴う夫婦生活を送っていたとも思えず、やはり、婚約だったのでは無いかと思われる。
ただし、北条政子の血を引く大姫であるから、幼く純粋であればあるほど、義高のことを恋焦がれ一途に想う日々を過ごしていたであろうことは想像に難くない。
元暦元(1184)年正月、頼朝の命令を受けた源範頼と源義経が率いる鎌倉軍によって、義仲は討伐され戦死を遂げる。
『遂於近江國粟津邊。令相模國住人石田次郎誅戮義仲』
(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
4月、頼朝は、
『是志水冠者。雖爲武衛御聟。亡父已蒙勅勘戮之間。爲其子。其意趣尤依難度。可被誅之由』
(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
として、近臣の者に対して秘密裡に、義高を殺害するよう命じる。
だが、女房衆がこれを聞き、大姫に知らせる。
大姫は、義高を逃すために、
『志水冠者迴計略』
(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
を立て、海野小太郎を義高の身代わりとして、義高が部屋にいるように見せかけ、その隙に義高を逃そうとする。
だが、すぐに頼朝の知るところとなり、激昂した頼朝は、堀親家に義高の追捕を命じる。
この事態に大姫は、
『周章々々銷魂給』
(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
うろたえ生きた心地すらしないほどの時を過ごすこととなる。
そして、26日、親家の郎党である藤内光澄が帰って来て、入間川のほとりで、義高を殺害したことを報告する。
大姫のことを心配した頼朝たちは、この事実を秘匿しようとしたが、大姫の
『漏聞』
(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
ところとなってしまう。
この義高の死は幼い大姫の心を粉々に打ち砕き破壊してしまう。
『愁歎之餘。令斷漿給』
(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
大姫は義高を思い寝食も取らずに、毎日ただただ泣き暮れるばかりであった。
『御哀愁之餘。已沈病床給。追日憔悴』
(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
日に日に弱って行くばかりの大姫の様子に慌てた頼朝や北条政子は、医師に治療を頼んでみたり、義高の法要を行ったりしたが、効き目は無かったと言う。
遂に、政子が怒り、
『堀藤次親家従被首。是依御臺所御憤也』
(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
義高を討った光澄の首を刎ね晒し首としている。
しかし、そのようなことをしても、もう無邪気で屈託のない笑顔が似合う大姫は二度と戻って来なかった。
大姫の状態を知ってか知らずか、大姫を近衛基通(摂政)の妻とする旨の打診が後白河法皇から為される。
これを頼朝は断るが、頼朝の真意は大姫を気遣ってのものでは無く、九条基実を朝廷の首座に据えようと言う思惑であったからと言われる。
頼朝が「鎌倉殿」となって以降、大姫は、政治の「コマ」に過ぎなかった。
大姫と静御前
文治2(1186)年、源頼朝の異母弟・源義経の妾である静御前が身重の体で鎌倉に連行されて来る。
この頃、頼朝は、後白河法皇から厚い信任を得た義経と関係が悪化し遂に敵対関係となったことで討伐の兵を派遣していた。
静御前を鎌倉へ連行して来たのは、頼朝の追討軍から逃亡している義経の行方を聞き出すためである。
静御前が白拍子であることから、頼朝は静御前に舞うように命じる。
そして、4月、意を決した静御前は、鶴岡八幡宮において、舞で頼朝と対決する。
(鶴岡八幡宮)
『しづやしづ賤のをだまき繰り返し昔を今になすよしもがな』
(『義経記 日本古典文學大系37』 岡見正雄 校注 岩波書店)
「繰り返し、今もう一度、恋しい義経様と過ごしたあの愛しい時がやって来る、そんな術があれば良いのに」
『吉野山嶺の白雪踏み分けて入りにし人の跡ぞ戀しき』
(『義経記 日本古典文學大系37』 岡見正雄 校注 岩波書店)
「吉野の山の白く積もった雪を踏み分けて山奥に消えて行ったあの人のことを今も心から恋しく思います」
これに不快感を露わにした頼朝を諫めたのは政子であった。
その後、静御前は男児を出産するが、政子の嘆願も叶わず、男児は頼朝の命令で殺害される。
大姫は、9月、政子と共に京へ帰る静御前を見送っている。
愛する義経のために、頼朝相手に舞で戦った静御前の姿に、大姫は、何を見て何を感じ何を考えたのであろうか。
大姫と一条高能
建久5(1194)年、頼朝の甥に当たる一条高能が鎌倉を訪れる。
北条政子はひと目で気に入り、また一条家との関係も考え、大姫を高能に嫁がせようとする。
《大姫と一条高能の関係図》 北条政子 │ ┝━━━大姫 │ 源義朝┳頼朝 ┣範頼 ┣義経 ┗女子 │ ┝━━━高能 │ 一条能保
そこで、
『姫君御不例復本給之間』
(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
大姫の調子が少し良くなった頃合いを見て、政子が内々に大姫に対して、高能との婚姻話を持ち出す。
しかし、
『敢無承諾、及如然之儀者』
(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
大姫は従兄弟姉妹に当たる高能との婚姻を頑として拒絶し、
『可沈身於深淵之由被申云々』
(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
深い淵に我が身を投げてやるとまで言い切る有様であった。
この大姫の様子を見た政子は、高能との婚姻は不可能と考える。
その一方で、大姫と高能の婚姻話に先立つ建久元(1190)年、九条兼実が娘・藤原任子(九条任子)を後鳥羽天皇に入内させていた。
《九条兼実と後鳥羽天皇の関係図》 後白河天皇━高倉天皇 │ ┝━━━┳守貞親王 │ ┗後鳥羽天皇 │ │ 藤原殖子 │ │ 九条兼実 │ │ │ ┝━━━━藤原任子 │ 藤原兼子
この動きは頼朝を駆り立てるものがあったようで、頼朝は、後鳥羽天皇の乳母を妻とした村上源氏の久我通親(土御門通親・源通親)に対して、その建久元年の内に大姫の入内工作を依頼していたともされる。
大姫の入内計画
後鳥羽天皇の元服が日程に上がると、
『當今御元服チカキニアリ』
(『愚管抄 日本古典文學大系86』岡見正雄 赤松俊秀 岩波書店)
京では入内について騒がしくなって行く。それら入内を巡る話題に、
『頼朝モ女子アムナリ』
(『愚管抄 日本古典文學大系86』岡見正雄 赤松俊秀 岩波書店)
として、鎌倉の大姫や妹の乙姫も話題に取り上げられている。
そして、何より頼朝自身が、
『頼朝ガムスメヲ内ヘマイラセン』
(『愚管抄 日本古典文學大系86』岡見正雄 赤松俊秀 岩波書店)
と、大姫の入内を目論んでいたのである。
建久6(1195)年2月、頼朝は「東大寺落慶法要」への列席を名目に政子と大姫を伴って畿内へ入る。
(東大寺毘盧遮那仏)
『将軍家自鎌倉御上洛。御臺所并男女御息等進發給』
(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
上洛すると頼朝は、六波羅第に丹後局(高階栄子)を招いた上で砂金300両を贈るなどして、大姫を後鳥羽天皇へ入内させるための工作を、なりふり構わず展開する。
(六波羅)
また、大姫は、政子と共に丹後局と対面する等している。
ただ、大姫の容体は京でも不調であったらしく、
『大姫公日來御病惱、寝食乖例、身心非常、偏邪氣之所致歟、護念上人依仰被奉加持之、仍今日令復本給』
(『吾妻鏡』国立国会図書館デジタルコレクション)
僧の加持祈祷を受けて持ち直したりしている状態であったと言う。
なお、この丹後局を頼るという頼朝の動きは、朝廷周辺に対して、頼朝が意図しない様々なメッセージを与えることとなる。
それがために『建久七年の政変』を呼び込み、それまでの頼朝の同盟者であった九条兼実を失脚させ奈落の底へと突き落とす結果となる。
《源頼朝と一条九条兼実の関係図》 源義朝┳頼朝 ┣範頼 ┣義経 ┗女子 │ ┝━━┳高能 │ ┗女子 │ │ 一条能保 │ │ ┝━━━通家━頼経(第四代将軍) │ 九条兼実━良経
後任の関白には、近衛基通が就く。基通は氏長者も務めている。そして、頼朝の甥となる一条高能が参議に就任。さらに、高能の義兄弟となる西園寺公経が「蔵人頭」に就任している。
まさに、朝廷の体制が変わってしまったのである。
大姫の最期
上洛中の大姫は、有象無象の京の公家たちの好奇な眼に晒され続けた。
このためか、鎌倉へ戻ってから大姫は体調を崩し倒れるなど、極めて不安定な状態に陥る。
大姫が発した入内拒否のサインであったのだろう。
だが、それでも、源頼朝は、建久8(1197)年中の入内を決める。
そのような頼朝に対して、自らの死を持って抗うかのように静かに、大姫は、その儚い生涯を終える。
『京ヘマイラスベシト聞エシ頼朝ガムスメ久クワヅイテウセニケリ』
(『愚管抄 日本古典文學大系86』岡見正雄 赤松俊秀 岩波書店)
大姫の享年を20歳とする説があるが、確かな年齢は不明である。
こうして、大姫を喪った頼朝であったが、すぐさま、妹の三幡(乙姫)の入内工作を進めるのであった。
大姫のまとめ
大姫は、源義高(木曾義高)との幼い恋心を引き裂かれた時、精神に破綻をきたす。
大姫に対しては、父の源頼朝も母の北条政子も、随分と気を使ったようであるが、壊れてしまった大姫の心を元に戻すことは出来なかった。
やがて、頼朝は目まぐるしく動く政局を前に焦れたかのように、大姫をとっておきのカードとして政略の道具に使うこととなる。
それは後鳥羽天皇のもとへ大姫を入内させるという「公武合体」策であった。
この頼朝の大姫に対する態度は、大姫の幸せを考えてのものであったのか?それとも自らが手にした権力と地位の安泰を第一に考えたものであったのか?
この大姫入内工作で頼朝が頼りとしたのが、後白河法皇の側近で、なおかつ後鳥羽天皇の乳母を妻とした久我通親(土御門通親・源通親)であった。
通親は、後白河法皇の寵姫である丹後局(高階栄子)と結びつく。
これこそは、頼朝の盟友であった九条兼実(関白)の政敵であった通親が採った頼朝と兼実の関係を破局させる方策であった。その上、通親は、妻の連れ子である在子を自らの養女として、大姫よりも先に後鳥羽天皇へ入内させてしまう。
《九条兼実と後鳥羽天皇の関係図》 後白河天皇━高倉天皇 │ ┝━━━┳守貞親王 │ ┗後鳥羽天皇 │ │ 藤原殖子 │ │ 久我通親==源在子 ↑(養女) 藤原範子 │ │ │ ┝━━━━在子 │ 能円
通親を抑えるためと、丹後局に念を押すために、頼朝は、大姫を連れて上洛する。
頼朝による大姫を連れての上洛は大姫を想像以上に疲弊させた。頼朝は僧侶に病気平癒の祈祷をさせたりしたが、大姫の容態は一進一退であったと言う。
しかも、頼朝が大姫入内の確約を得ないまま鎌倉に戻った後、通親の養女で後鳥羽天皇の後宮に入っていた在子が皇子を出産する(後の土御門天皇)。
未来の天皇の外戚に近付いた通親は後鳥羽天皇を動かし、朝廷の体制を変えてしまうのである(なお、兼実の関白罷免については頼朝も同意していたともされる)。
結局、大姫の入内に頼朝が拘り続けたあまり、その頼朝の我欲は、海千山千の公家同士の勢力争いに利用されるところとなって行くのである。
男たちの様々な政治的な思惑が蠢く中、大姫は遂に不帰の人となる。
それは、幼い日に刻み付けた義高の眼差しや義高の声や義高の温もり、そして、義高の笑顔を支えとして生きて来た大姫が全てのしがらみから解放された瞬間であった。
現世から離れてようやく大姫は、身も心も自由となって、最愛の人・義高と結ばれたと言えるのかも知れない。
大姫の系図
《大姫系図》 北条時方━時政┳政子 ┃ │ ┃ └──────────┐ ┃ │ ┣義時 │ ┗時房 │ │ ┌──────────┘ │ ┝━━━━━┳大姫 │ ┣頼家(第二代将軍) │ ┣実朝(第三代将軍) │ ┗三幡(乙姫) │ 源為義━┳義朝┳頼朝(初代将軍) ┃ ┣範頼 ┃ ┣義経 ┃ ┗女子 ┃ │ ┃ └──────────┐ ┃ │ ┣義賢━義仲━━━━━━義高 │ ┗行家 │ │ ┌──────────┘ │ ┝━━━━━┳高能 │ ┗女子 │ │ 一条能保 │ │ ┝━━━通家━頼経(第四代将軍) │ 九条兼実━━━━良経
大姫の墓所
鎌倉にある常楽寺に、大姫のものと伝わる墓がある。
(粟船山常楽寺)
ただし、これを北条泰時の娘の墓とする説もある。
大姫の年表
- 寿永元(1182)年8月12日同母弟・源頼家、誕生。
- 寿永2(1183)年3月源義高、鎌倉へ到着。
- 元暦元(1184)年正月22日源義仲、鎌倉軍の攻撃を受け戦死。
- 4月21日源頼朝、義高の殺害を決める。
- 4月26日義高殺害の報告が届く。
- 文治2(1186)年9月16日北条政子と共に静御前を見送る。
- 建久3(1192)年8月9日同母弟・源実朝、誕生。
- 建久5(1194)年閏8月1日頼朝・政子・頼家と三崎津に出かける。
- 建久6(1195)年2月14日鎌倉を出発。
- 3月4日入京。
- 3月29日政子と共に丹後局と対面する。
- 7月8日鎌倉へ戻る。
- 建久8(1197)年7月14日死去。