深草王【実録!父王を殴り流罪になった皇族!その系譜は消されたのか?】

深草王について

【名前】 深草王
【読み】 ふかくさおう
【生年】 不明
【没年】 不明
【時代】 長岡京時代
【位階】 不明
【官職】 不明
【父】 不明
【母】 不明
【兄弟姉妹】 不明
【配偶者】 不明
【子】 不明

深草王の生涯

深草王の生い立ち

深草王の父は不明である。

また、母も同じく不明であり、深草王の誕生年も判っていない。

ただ、正史に、

『四世王深草』

(『日本後紀(上)』全現代語訳 森田悌 講談社学術文庫 講談社)

と記載されていることから皇親であることが判るのみである。

深草王、父親を殴打し流罪となる

延暦12(793)年10月、深草王は父親を殴打し捕縛される。

深草王が父親を殴打した理由は不明である。深草王本人の人格上の問題からの凶行であったのか、あるいは「四世王」と言う社会的立場に不満を覚えたことからの凶行であったのか、その犯行動機は色々と考えられるが、全て推測の域を出ない。

『養老律』「闘訟律第八」に従い刑事罰を受け、深草王は斬刑に処されることとなる。

しかし、桓武天皇の勅命で死罪から一等減じられたことで辛うじて命は救われる。

こうして、深草王は長岡京から隠岐国へ流罪となった。

長岡京と隠岐島
(長岡京と隠岐島)

隠岐国へ流されて以降の深草王の消息は一切が不明である。

深草王とは

深草王が一体誰の子であるのか?全く不明である。

深草王と言う名前から山背国(山城国)紀伊郡深草に何らかの所縁を持つ人物と思われる。

桓武天皇が直々に勅を下して命を助けていることから見て天智天皇皇統の位置する皇族であった可能性もある。

天智天皇皇統の皇族であったとしたならば、施基親王(志貴皇子)の孫となる桑原王・鴨王・神王・壱志濃王の、そのまた孫と言うことになる。

施基親王(志貴皇子)は、子の白壁王が皇位に即いた(光仁天皇)ことで「春日宮御宇天皇」として追尊天皇とされた。

このことで、施基親王(志貴皇子)の孫である桑原王・鴨王・神王・壱志濃王は「二世王」の扱いを受けることとなった事情がある。

さて、深草王の父は三世王でありながら、その名が正史に記されていない。

実は、そのことに関連するかの如く奇妙なことに、実は桑原王・鴨王の二人もまた、父王の名前が不明である。そして、桑原王・鴨王・神王・壱志濃王たちの子に至っては全て名前も数も明確には伝わっていない。

深草王の詳細が不明であるのは、この辺りの事情が絡んでいるのかも知れない。

同時にそれは、深草王が桑原王・鴨王・神王・壱志濃王たちの孫であった可能性も含んでいると言うことである。

隠岐島
(隠岐島)

もしかすると、後の世に隠岐島で深草王の子孫が流罪となった後醍醐天皇と対面するようなことがあったかも知れない。

深草王の系図

不明。

深草王の年表

年表
  • 延暦12(793)年
    10月6日
    深草王、流罪となる。