目次
四道将軍について
【表記】 | 四道将軍 |
---|---|
【読み】 | よつのみちのいくさのきみたち |
四道将軍とは
『日本書紀』に拠れば、ミマキイリビコイニエノ大王(崇神天皇)が統治圏拡大のため近畿周辺各地に派遣した将軍のこと。
『四方に遣して、朕が憲を知らしめよ』
(『日本古典文學大系67 日本書紀 上』 坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
と言う詔勅によって、北陸(北陸道)・東海(東海道)・西海(山陽道)・丹波(山陰道)の地域に四人の将軍が派遣された。
(四道将軍の派遣された地域)
各地に派遣された四道将軍たち
北陸(北陸道)
北陸(北陸道)へ派遣されたのは大彦命であった。
《大彦命系図》 孝霊天皇━孝元天皇 │ ┝━━━┳大彦命 │ ┣開化天皇 │ ┣倭迹迹日百襲媛命 │ ┗彦太忍信命 │ ┏鬱色謎命 ┗鬱色雄命
東海(東海道)
東海(東海道)へ派遣されたのは武渟川別命であった。
《武渟川別命系図》 孝霊天皇━孝元天皇 │ ┝━━━┳大彦命━━━━━━武渟川別命 │ ┣開化天皇 │ ┣倭迹迹日百襲媛命 │ ┗彦太忍信命 │ ┏鬱色謎命 ┗鬱色雄命
西海(山陽道)
西海(山陽道)へ派遣されたのは吉備津彦命であった。
《吉備津彦命系図》 細媛命 │ ┝━━━孝元天皇 │ 孝安天皇━孝霊天皇 │ ┝━━┳彦狭嶋命 │ ┗吉備津彦命(稚武彦命) │ 蠅伊呂杼
丹波(山陰道)
丹波(山陰道)へ派遣されたのは丹波道主命であった。
《丹波道主命系図》 丹波竹野媛 │ ┝━━━━彦湯産隅命━丹波道主命 │ 孝元天皇━開化天皇 │ ┝━━━━崇神天皇 │ 伊香色謎命
『古事記』と『日本書紀』における「四道将軍」の相違点
- 北陸(北陸道)
大毘古命(大彦命) - 東海(東海道)
建沼河別命(武渟川別命) - 西海(山陽道)
記述無し - 丹波(山陰道)
日子坐王
- 北陸(北陸道)
大彦命 - 東海(東海道)
武渟川別命 - 西海(山陽道)
吉備津彦命 - 丹波(山陰道)
丹波道主命
『古事記』では、北陸に派遣された大彦命(大毘古命『古事記』)と、東海に派遣された武渟川別命(建沼河別命『古事記』)は、『日本書紀』と同じである。
しかし、丹波に派遣されたのは、丹波道主命では無く日子坐王となっている。
《日子坐王系図》 意祁津比売 │ ┝━━━━日子坐王 │ 孝元天皇━開化天皇 │ ┝━━━━崇神天皇 │ 伊香色謎命
日子坐王の生母は、和珥氏の祖を出自としている。
また、西海には誰も派遣されていない。
四道将軍の考察
一般には、大和盆地の片隅に登場したヤマト王権(大和朝廷)が、ミマキイリビコイニエノ大王(崇神天皇)の時代に周辺地域へ、その支配圏を拡大したことを、『日本書紀』が主張しているものと解されている。
「四道将軍」に任命されたとされるのは、皆、欠史9代と呼ばれる時代の皇子や皇孫と言う特徴がある。
北陸(北陸道)と東海(東海道)へ派遣されたのは、オオヤマトネコヒコクニクルノ大王(孝元天皇)の皇子・大彦命と、大彦命の子・武渟川別命である。
一方、西海(山陽道)と丹波(山陰道)へ派遣されたとするのが、皇別在地系地方豪族に関係する皇子たちである。
このことから、大王(天皇)がそれぞれ派遣したとしているが、実態は、各地に存在していた有力豪族の始祖を大王(天皇)の系譜に結び付けるための説話譚であり、ヤマト王権(大和朝廷)が地方を支配することの正当性を遡って主張するために作り出されたとも見られる。
そして、この「四道将軍」は「皇子世代」と「皇孫世代」の二世代に渡る年齢分布をしている。
北陸の大彦命と西海の吉備津彦命は「皇子世代」であり、東海の武渟川別命と丹波の丹波道主命は「皇孫世代」である。しかも、常識的に考えると、「皇子世代」の吉備津彦命と「皇孫世代」の丹波道主命とでは相当な年齢差があったものと推測される。
このことから、『日本書紀』では地方平定は1年足らずの出来事としているが、実際のところ、地方平定には、二世代、もしくは、それ以上の時間を費やしたことを意味するものと見られる。
ミマキイリビコイニエノ大王(崇神天皇)のことを「ハツクニシラス天皇(御肇国天皇)」と『日本書紀』は記している(『古事記』では「知初国之御真木天皇」)。
即ち、倭(日本)を初めて統治した大王(天皇)と言う意味である。
大和盆地にあった片田舎の地方集団「倭」から支配圏を拡大して、国家としての「倭(大倭)」を建設して行く物語を構成するのが、四道将軍の存在であった。
四道将軍の年表
- 崇神天皇10(紀元前88)年7月24日崇神天皇、近畿周辺部へ四道将軍を派遣。
- 崇神天皇11(紀元前87)年4月28日四道将軍、各地の平定を崇神天皇に上奏。