稲生原合戦【織田信長 対 織田勘十郎(織田信勝)】

稲生原合戦について

【表記】 稲生原合戦
(稲生合戦)
【読み】 いのうはらかっせん
(いのうかっせん)
【時代】 戦国時代

稲生原合戦とは

弘治2(1556)年に、織田信長と織田勘十郎(織田信勝)との間で行われた合戦。

織田信長
(『織田信長像(部分)』長興寺所蔵 Wikimedia Commons)

稲生原合戦の戦力

織田信長 軍
  • 総大将
    織田信長
  • 総兵力
    約700
  • 武将
    織田信房
    佐久間信盛
    丹羽長秀
    佐々成政
    池田恒興
    森可成
    前田利家
織田勘十郎 軍
  • 総大将
    織田勘十郎
  • 総兵力
    約1700
  • 武将
    林秀貞
    林美作守(700)
    柴田勝家(1000)
    佐久間盛重

稲生原合戦の概要

稲生原合戦の発端

織田弾正忠家家督を相続した織田信長に対して、その「資質」に疑問と不安を感じていた林秀貞と林美作守の兄弟は、織田氏重臣である柴田勝家と謀議を重ね信長を排斥した上で、信長の弟である織田勘十郎(信勝)を当主に擁立せんと動き出す。

弘治2(1556)年5月26日。

信長は守山城主の織田信時と共に林秀貞邸へ赴く。この時に林美作守に拠り信長に切腹をさせると言う信長排斥計画が実行されようとしたが、秀貞が織田氏への累代の恩義を理由に躊躇し信長排斥の機会を逃す。この事件をきっかけに反・信長勢力の動きが顕著となる。

また、信長派と目されていた織田信時が自らの不始末によって、家臣の謀反を受け自刃するなど情勢は混沌とするようになり、信長は織田信次を守山城に入れるなど手を打つ。

8月22日、勘十郎は信長討伐の前衛基地として名塚砦の建設を命じる。

23日、降りしきる雨の中を勘十郎軍の林美作守部隊700・柴田勝家部隊1000が出陣する。

稲生原合戦の戦況

8月24日、織田信長は織田勘十郎側が軍事行動に出たのを確認した上で出陣。

この時の信長側の軍勢は700ほどで稲生村近郊の地において両軍は衝突した。林美作守部隊は南方から、柴田勝家部隊は東から、それぞれ信長軍に攻めかかった。信長は包囲殲滅される危険を回避するために、一旦、後退し体勢を立て直さざるを得なかった。

稲生原合戦(稲生合戦)
(稲生原合戦図)

戦術的には、開戦劈頭、兵数の上で優位にありながらも信長軍を包囲出来なかったことが勘十郎軍にとって痛恨の失態となる。

信長軍はまず勝家部隊を攻めたてた。

だが、戦巧者である勝家の指揮する部隊は想像以上に強く、信長軍は佐々成政の兄・佐々孫介など主力武将に犠牲者が出るばかりであり、乱戦の最中に信長も負傷しやむを得ず本陣まで一時退去することとなる。

時間の推移と共に信長軍は劣勢に追い込まれていく展開となり、信長本陣に軍勢は自然と集結し負けムードが漂うようになる。この時、信長の周囲には僅か40人ほどしか兵はいない有様であった。

この戦況に信長は怒りに任せあらんばかりの雄叫びを上げたという。

信長の雄叫びは信長軍を奮い立たせると同時に、勝家部隊・美作守部隊の将兵を恐れさせた。

この異様な雰囲気の中を信長軍の織田信房部隊が勝家部隊に突進し、信長も自らが先頭に立ち美作守部隊に突き進んだ。

信長の家臣・黒田半平が美作守に襲い掛かり、両者は決死の組み合いを繰り広げ半平は美作守によって左腕を斬り落とされる。この取っ組み合いで美作守が疲れきっているところへ信長は襲撃をかけ、遂に美作守の頚を討ち取ることに成功する。

美作守の死は美作守部隊の壊滅となり戦線は崩壊し、勝家も部隊を退却させざるを得なかった。

信長はこの日のうちに清洲城へ凱旋した。

稲生原合戦の戦後処理

織田勘十郎側において『稲生原合戦』で、実際に軍事行動を起こしたのは林美作守と柴田勝家であった。

しかし、この合戦は織田家(織田弾正忠家)中において勘十郎派が大きな勢力となっていたことの証しでもあった。

このため、織田信長は『稲生原合戦』で辛くも勝利を収めた後は、勘十郎側の末森城と那古野城に攻勢をかけ周囲を焼き払う等の軍事的圧迫をかけ続ける戦術を取る。

ここに至り、末森城に居た信長と勘十郎の生母である土田御前が、信長の右筆である村井貞勝を通して信長に和議を要請する。信長がこの要請を受け入れたことで、この骨肉の争いは一応の終結を見る。

勘十郎と勝家は謹慎し信長に対して恭順の意を表した。さらに、信長は林秀貞も特別に許している。

稲生原合戦の意義

この『稲生原合戦』が勃発した時点では、織田信長は未だ尾張統一戦の真っ只中にあった。

ここで自らの家中に徹底的な粛清を加えることは、織田信秀から受け継いだ遺産を削ぐ結果ともなるために、敢えて寛大な処分を下すことで反・信長勢力を自勢力に取り込もうとする目論みがあったのかも知れない。

なお、『稲生原合戦』は『稲生合戦』とも呼ばれる。

稲生原合戦の主な戦没者

織田信長 軍
  • 主な戦没者
    佐々孫介
    山田治部座衛門 等
織田勘十郎 軍
  • 主な戦没者
    林美作守
    大脇虎蔵
    河辺平四郎
    鎌田助丞
    富田左京進
    山口又次郎
    橋本十蔵
    角田新五

    約450人

稲生原合戦の年表

年表
  • 弘治2(1556)年
    5月26日
    林美作守、織田信長の排斥の機会を逃す。
  • 8月22日
    織田勘十郎、名塚砦の建設を開始。
  • 8月23日
    織田勘十郎軍の林美作守部隊・柴田勝家部隊が出陣。
  • 8月24日
    織田信長軍、出陣。
    『稲生原合戦』。