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春日局(昭訓門院春日)について
【名前】 | 春日局(昭訓門院春日) |
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【読み】 | かすがのつぼね(しょうくんもんいんかすが) |
【法名】 | 不明 |
【生年】 | 不明 |
【没年】 | 不明 |
【時代】 | 鎌倉~南北朝時代 |
【職能】 | 昭訓門院女房 |
【父】 | 二条為世(藤原為世) |
【母】 | 不明 |
【兄弟姉妹】 | 二条為道・二条為藤・二条為宗・二条為躬・二条為冬・二条為子 他 |
【配偶者】 | 西園寺実衡 |
【子】 | 西園寺公宗 |
【甥】 | 尊良親王・宗良親王 |
【家】 | 二条家(藤原氏北家・歌道二条流) |
【氏】 | 藤原氏 |
【姓】 | 朝臣 |
春日局(昭訓門院春日)の生涯
春日局(昭訓門院春日)の生い立ち
春日局は、二条為世の娘として生まれる。
母方に関しては詳細が不明である。
父の為世は、歌道二条流の歌人として知られる。
春日局の父方の血筋を見ると、藤原定家・宇都宮頼綱・飛鳥井教定と言った鎌倉時代を代表するような錚々たる文化人が並ぶ。
《関係略図》 後醍醐天皇 │ 飛鳥井教定━女子 │ │ │ ┝━━━━━━為世━┳為子 │ ┗春日局(昭訓門院春日) │ 宇都宮頼綱━女子 │ │ │ ┝━━━┳為氏(二条家) │ ┗為教(京極家) │ 藤原定家━━為家 │ ┝━━━━為相(冷泉家) │ 阿仏尼
このことから、当然、春日局も幼少時より父方の影響を受けて歌に親しみ、文学の才に秀でた教養豊かな女性であったと思われる。
なお、春日局の実名は伝わっていない。
春日局(昭訓門院春日)と西園寺瑛子(昭訓門院)
春日局は、亀山天皇の側室・西園寺瑛子(昭訓門院)に仕えるようになる。
出仕した理由としては、やはり春日局が教養に溢れ歌の才能に長けていたことが大いに関係したものと容易に想像される。
なお、西園寺瑛子が「昭訓門院」の女院宣下を受けるのは、正安3(1301)年のことで、春日局が瑛子に仕え出したのも、この前後の頃と考えられる。
この正安3(1301)年は、皇位が大覚寺統に遷った年でもある。
春日局(昭訓門院春日)と大覚寺統の内紛
嘉元元(1303)年、春日局の父の為世は、後宇多上皇(大覚寺統)の支持を得て、『新後撰和歌集』を完成させる。
この『新後撰和歌集』は、元々は、伏見天皇が、為世と為世の従弟に当たる京極為兼に和歌の選定を命じたものであるが、永仁6(1298)年に、為兼が失脚した上に、正安3(1301)年に、皇位が大覚寺統へと遷ったことで、為世が台頭し活躍したのである。
《大覚寺統と持明院統》 後嵯峨天皇┳宗尊親王━惟康親王 ┣後深草天皇(持明院統)┳伏見天皇━┳後伏見天皇┳光厳天皇 ┃ ┃ ┃ ┗光明天皇 ┃ ┃ ┗花園天皇━━直仁親王 ┃ ┗久明親王━━守邦親王 ┃ ┗亀山天皇(大覚寺統)━┳後宇多天皇┳後二条天皇━邦良親王━康仁親王 ┃ ┗後醍醐天皇 ┗恒明親王
これには、為世は二条流歌道を大覚寺統に頼っており、一方の為兼の京極流は持明院統を頼りとしていた背景があった。
さらには、亀山法皇の室の昭訓門院瑛子の女房である春日局の何らかの働きがあったのかも知れない。
嘉元3(1305)年9月、亀山法皇が崩御する。
(大覚寺)
亀山法皇の死は、大覚寺統に大きな混乱を招くことになる。
亀山法皇は崩御する前に「昭訓門院所生の恒明親王を皇太子とせよ」と言う遺詔を残し、恒明親王に大覚寺統の所領の多くを譲り、恒明親王のことを公衡に託していたのである。
しかし、後宇多上皇は亀山法皇の遺詔を全て反故にし、大覚寺統の東宮候補として自らの皇子である尊治親王(後醍醐天皇)を推す事態となる。
《関係略図》 西園寺実兼┳公衡 ┗瑛子 │ ┝━━━恒明親王 │ 後嵯峨天皇━亀山天皇 │ ┝━━━後宇多天皇 │ │ 洞院実雄━━佶子 │ │ ┝━━━━尊治親王 │ 五辻忠継━忠子
公衡は、この後宇多上皇の強引なやり方を批判したために、勅勘を蒙ることとなった。
春日局は、実父の為世を引き立ててくれる大覚寺統に大恩を感じる一方で、自分が仕える昭訓門院瑛子を母とする恒明親王が東宮から外された理不尽に対する憤りも覚えたのではないだろうか。
なお、失脚した為兼であるが、嘉元3(1305)年に復帰を果たし、延慶3(1310)年になると、またも勅撰和歌集の撰者の座を巡って、為世と争うこととなる。
春日局(昭訓門院春日)と夫・西園寺実衡
西園寺公衡に出された勅勘は、すぐに赦されることになる。
しかし、公衡の憤懣は、徳治元(1306)年、娘の寧子を持明院統の後伏見天皇の室に入れて、持明院統とのパイプも作ろうとしたほどであった。
《関係略図》 後伏見天皇(持明院統) │ 西園寺実兼┳公衡━━┳寧子 ┃ ┗実衡 ┗瑛子 │ 亀山天皇(大覚寺統)
もっとも、公衡の父の西園寺実兼が、時局に応じて自分の娘を大覚寺統・持明院統どちらにも振り分けていたのに倣ったとも取れる。
《関係略図》 西園寺実兼┳━━公衡━━実衡 ┃ ┣━━●子 ┃ │ ┃ 伏見天皇(持明院統) ┃ ┣━━禧子 ┃ │ ┃ 後醍醐天皇(大覚寺統) ┃ ┗━━瑛子 │ 亀山天皇(大覚寺統) ※●「金」に「章」
このように、大覚寺統派の西園寺家が大覚寺統のみならず、持明院統との繋がりを模索し始める等、不穏な空気が漂う中、延慶2(1309)年、春日局は、男子を出産する。後の西園寺公宗である。
春日局と実衡との婚姻時期がいつであるのかははっきりしない。
春日局から見れば、仕えている昭訓門院の甥に当たる実衡は顔見知りであったことと思われる。
そして、何より歌道の家に生まれ和歌の才能に満ちている上に、昭訓門院に女房として仕える春日局は、当時の男性貴族にとって垂涎の的であったことは間違い無いところである。
同時に二条家にとっても、関東申次を務める西園寺家との縁組は願ってもないことであったと思われる。
春日局(昭訓門院春日)と政局
正和4(1315)年、西園寺家の大黒柱であった西園寺公衡が死去する。
すると、二条家の歌道のライバルであると同時に、西園寺家にとっても政治的ライバルである京極家の京極為兼が、持明院統の伏見法皇の後ろ盾を得て台頭する。
公衡の死後、西園寺家の危機を救うべく西園寺家を背負ったのは、西園寺実衡の祖父に当たる西園寺実兼であった。
春日局の夫の実衡は、この難局を乗り切るには若いと見られたようである。
こうして、再登板した実兼は、老骨に鞭打ち鎌倉幕府(北条氏得宗)との深いパイプをフル活用して為兼に立ち向かう。
その結果、六波羅探題が謀反の容疑で為兼を捕縛することとなり、翌正和5(1316)年には、為兼は土佐国へ流されることとなる。
まさに、実兼の面目躍如である。
次いで、実兼は、文保元(1317)年、自邸北山第において、持明院統と大覚寺統の間で、それぞれの一統が互いに皇位に就く所謂「両統鉄立」について話し合いが行われている(『文保の御和談』)。
この時期、実兼は、娘の西園寺禧子を尊治親王の室としており、一時悪化した大覚寺統側との関係を修復しつつあった。
これらの流れの中で、元亨元(1321)年、宮中において、後宇多法皇と後醍醐天皇が、春日局の兄で当時侍従であった二条為藤に歌合の開催を命じている。
この時の歌合では、為藤以下、春日局の父の二条為世、春日局の弟の二条為冬、さらに、名だたる歌人が集められたのであるが、その中に、春日局の姿もあった。
この歌合に出席した女流歌人は、春日局以外には、少将内侍しか確認出来ないことからも、春日局が、当時「歌人」として著名であったことが窺える。
「歌道の家」の一員として春日局は、晴れの舞台に立ったのである。
春日局(昭訓門院春日)と西園寺家の落日
ところが、元亨元(1321)年の暮れに、後醍醐天皇は、「天皇親政」を目指し、父の後宇多法皇の院政を停止させた上で記録所を設置に動き出す。
この結果、西園寺家が代々務める関東申次の立場は、京において弱まりつつあった。
そのような政治状況下、これまで老獪な手腕を見せて来た実兼も、元亨2(1322)年に死去し、ここに春日局の夫の実衡が、落日の関東申次に就任する。
正中元(1324)年には、為世の後継者と期待された二条為藤が死去する。
為世は、正安元(1299)年に、嫡子の二条為道を亡くしており、子に先立たれる悲しみを二度も味わったのである。
『思へたゞ 和歌の浦には おくれゐて 老たるたづの 嘆く心を』
(『日本古典文學大系87 神皇正統記 増鏡』岩佐正 時枝誠記 木藤才藏 校注 岩波書店)
当時、為世の詠んだ歌に、子に先立たれた父の悲しみが溢れており、それはまた、春日局を始めとする為世一族の悲しみでもあった。
さらに、この年、鎌倉幕府に対する武力クーデター未遂事件『正中の変』が発覚する。
この事変では、公宗の義理の叔父となる日野資朝が六波羅探題に捕縛され、結果、佐渡へ流罪となっている。
また、この頃、持明院統内では後伏見上皇派と花園上皇派に分かれ、大覚寺統内部でも後二条上皇派と後醍醐天皇派に分かれて、政局は混迷を極めつつあった。
この時期の春日局は、様々な難しい局面に置かれていたのではないだろうか。
嘉暦元(1326)年、量仁親王(光厳天皇)が立太子すると、春日局の子の西園寺公宗は、従兄弟に当たる量仁親王の春宮大夫に就任。
さらに、この年、実衡が若くして死去したことで、公宗が関東申次に就任する。
こうして公宗が公武両面において重要な位置に就いたことで、春日局は、不安の中にも我が子のことを誇らしく思い、愁眉を少し開いたかも知れない。
また、時期は不明ながら、公宗は、日野資名の娘・日野名子と婚姻する。
《関係略図》 西園寺実衡 │ ┝━━━━━━━━━━公宗 │ │ 春日局(昭訓門院春日) │ │ ┝━━実俊 │ 日野資名━━━━━━━┳名子 ┗氏光
たが、それから間もなく時代は大きな動乱に突入する。
元弘元(1331)年、倒幕未遂事件の『元弘の変』が起こる。
翌元弘2(1332)年に、量仁親王が即位(光厳天皇)したことで落着するかに見えたが、元弘3(1333)年5月、足利高氏が、京における鎌倉幕府の拠点である六波羅を攻撃したのである。
六波羅探題北方の北条仲時は近江国で自刃に追い込まれ、そして、光厳天皇も廃位となった。
鎌倉でも、北条高時が自刃して果て、鎌倉幕府は、ここに滅亡する。
かくして、公宗の関東申次も廃された。
春日局と公宗の母子は、新しい時代の高揚に置いて行かれ、絶望と悲しみの淵にあった。
春日局(昭訓門院春日)の戦い
ところが、事態は思わぬ方へ展開する。
鎌倉で北条氏得宗の北条高時が自刃した時、高時の弟に当たり僧籍に在った恵性も、高時と共に自刃したと思われていたが、その恵性は各地を放浪した後、京に現われたのである。
西園寺公宗は、この恵性を匿った。
その上で還俗させ、北条泰家、さらに、北条時興と名乗るに至り、この時興を以って大将と為して幕府を再興することで、西園寺家の権威回復と、持明院統の光厳上皇の復位を企図する。
建武2(1335)年6月のことである。
そのために、公宗は、自邸の北山第に後醍醐天皇の行幸を仰いだ上で、隙を見て後醍醐天皇を暗殺すると言う恐るべき計画を立てた。
(北山第)
我が子・公宗のクーデター計画を、春日局が知っていたのか否か判らない。
しかし、このクーデター計画は、公宗の異母弟である西園寺公重が、後醍醐天皇方に密告したことで発覚し、公宗は捕縛される。
この時、公宗と共にクーデター計画への関与に疑われたのは、日野氏光・藤原俊季・三善文衡・中原清景等である。
公宗は流罪と決まり、名和長年のもとに預けられる。
クーデター未遂は大逆であり死刑相当であるが、公宗は、皇室(天皇家)に連なる名家であり、官位も正二位であったため減刑され流罪とされたのである。
しかし、長年の勘違いのために氏光と共に斬殺されてしまう。
公宗の死後、間もなく、公宗の妻の日野名子が男児を出産する。その誕生は、公宗死後100日目であったとも言われる。
後醍醐天皇方では、公宗の子が誕生したとの噂を聞きつけ、公宗の子が男児であったならば、奪い去って処分してしまうべく、中院定平を使者として派遣して来る。
この定平の前に立ちはだかったのが春日局であった。
春日局は、泣き崩れながら、定平と対面すると、
『生レ落玉ヒシ後、無幾程ハカナク成給候。是モ咎有シ人ノ行ヱナレバ』
(『日本古典文學大系35 太平記 二』後藤丹治 釜田喜三郎 校注 岩波書店)
と、涙を流しながら、子供は生まれはしたものの、犯罪人の子であるからか、すぐに息を引き取ってしまった、と涙ながらに答えたのである。
春日局を「公宗の妻の侍女」とすることが多いのも、この『太平記』中の記述に拠るところが大きいものと思われる。
さらに、事の次第を綴った消息文を書き、次の一首を詠んだ。
『偽ヲ 糺ノ森ニ 置露ノ 消シニツケテ 濡ルゝ袖哉』
(『日本古典文學大系35 太平記 二』後藤丹治 釜田喜三郎 校注 岩波書店)
窮地の春日局が詠んだ渾身の一首である。
春日局の様子を定平から聞いた後醍醐天皇は、あまりの悲惨さに深く同情し哀れんで、それから後、公宗の子については二度と捜索しようとはしなかった。
歌道の家の娘として生まれた春日局は、その自分が持ち得る最期の武器とも言える「和歌の力」の拠って、我が子の公宗がこの世に残した忘れ形見の命を守ったのである。
だが、西園寺家は、公宗のクーデター計画を密告した公重が、後醍醐天皇の指図で、その家督を相続することになる。
これ以降、春日局の消息は一切が不明となっている。
春日局(昭訓門院春日)とは
西園寺家の家督を剥奪された後、幼い孫の西園寺実俊を守り育て、家督を取り返したのは、春日局の働きではなかったかと思われる。
実俊は、成長後、持明院統の北朝から西園寺家家督を与えられ、武家執奏に任じられている。さらに、実俊は、この後、足利尊氏の開いた室町幕府に出仕することとなる。
また、後醍醐天皇と足利尊氏が武力衝突した南北朝の戦乱において、春日局の弟の二条為冬は、後醍醐天皇方として、足利尊氏方の軍勢と駿河国で戦い、戦死を遂げている。
後醍醐天皇が、謀反人である西園寺公宗の子(実俊)の捜索を打ち切った背景には、春日局の実家である二条家が大覚寺統側であったことも、その理由であったのかも知れない。
その後、実俊の娘は、後醍醐天皇の室に迎えられている。
このように、二条家と京極家・大覚寺統と持明院統・南朝と北朝・宗家と傍流等、様々な対立軸がうねる時代に生きた女性が春日局である。
春日局の実家である二条家は大覚寺統との繋がりがあり、婚家の西園寺家は持明院統との繋がりがあった。
それらの繋がりは複雑に絡み合い、途切れては繋がり、繋がっては途切れる不安定なものであって、その繋がりを孫のために巧みに結び付けたのが春日局だったのではないだろうか。
春日局の没年は不明であり、その墓所も今もなっては判らない。
江戸時代、朝廷は、徳川秀忠と崇源院の間の子の徳川家光の乳母を務めた斎藤福に対して「春日局」号を贈った。
この「春日局」号は、足利義嗣生母の春日局と、そして、この西園寺公宗生母の春日局(昭訓門院春日)に因み名付けたとする説がある。
その説では、足利義嗣と西園寺公宗は、共に「謀反人」であり、春日局は「謀反人に連なる女」を意味する号であると言う。
朝廷の真意がどこにあったのかは不明である。
しかし、足利義嗣生母の春日局も、そして、西園寺公宗生母の春日局(昭訓門院春日)も、どちらも、母として子を想う気持ちは、純粋で尊いものだった。
とりわけ昭訓門院に仕えた春日局は、自らの命を賭した上で持てる才智を使い、我が子が、この世に遺した唯一人の孫を守り切った。
女性として、母として、激しく移ろう時代に対峙したのが、春日局だったと言えよう。
春日局(昭訓門院春日)の系図
《春日局(昭訓門院春日)系図》 足利義満 │ └───┐ │ 日野資宣━━俊光━━━━━━┳資名━━━┳時光┳資康 │ ┃ ┃ ┗業子 │ ┃ ┃ │ │ ┃ ┃ └───┘ ┃ ┃ ┃ ┣氏光 ┃ ┗名子 ┃ │ ┃ ┝━実俊 ┃ │ ┃ └──────┐ ┃ │ ┗資朝 │ │ 二条為氏━━為世━━━━━━┳為道 │ ┣為藤 │ ┣為冬 │ ┣為子 │ ┃ │ │ ┃ ┝━━━┳尊良親王 │ ┃ │ ┗宗良親王 │ ┃ │ │ ┃ └────────────┼┐ ┃ ││ ┗春日局 ││ │ ││ ┝━━━━公宗 ││ │ │ ││ │ └──────┘│ │ │ 中御門経任━女子 │ │ │ │ │ ┝━━━━━━━実衡━━━━公重 │ │ │ 中院顕子 │ │ │ │ │ ┝━━━━公衡 │ │ │ │ │ ┝━━━━━━━寧子(広義門院) │ │ │ │ │ │ 藤原兼子 │ │ │ │ │ │ ┝━━━┳光厳天皇 │ │ │ ┗光明天皇 │ │ │ │ │ └────────┐ │ │ │ │ 西園寺実兼━禧子 │ │ │ │ │ │ │ └─────────────────┼┐ │ │ ││ │ ┝━━━━瑛子(昭訓門院) ││ │ │ │ ││ │ │ ┝━━━━━━━恒明親王 ││ │ │ │ ││ │ │ └──────────────┐ ││ │ │ │ ││ │ 二条 │ ││ │ │ │ ││ │ │ ┌─────┼──┘│ │ │ │ │ │ │ ┏後深草天皇━伏見天皇━━━━┳後伏見天皇 │ │ │ ┃ ┗花園天皇 │ │ │ ┃ │ │ │ ┗亀山天皇━━後宇多天皇━━━┳後二条天皇 │ │ │ │ ┗後醍醐天皇 │ │ │ │ ││ │ │ │ │ │└────┼───┘ │ │ └─────┼───────┘ │ │ └────────────────────┘
春日局(昭訓門院春日)の年表
- 正安3(1301)年3月19日西園寺瑛子、院号宣下。
- 延慶2(1309)年公宗を出産。
- 正和4(1315)年9月25日西園寺公衡、死去。実兼、関東申次に再任される。
- 文保2(1318)年2月26日後醍醐天皇、践祚。
- 3月29日後醍醐天皇、即位。
- 元応元(1319)年4月二条為世、『続千載和歌集』を奏覧。
- 元応2(1320)年8月二条為世、『続千載和歌集』を完成させる。
- 元亨元(1321)年8月15日宮中の歌合に出席。
- 12月後醍醐天皇、記録所を設置。
- 元亨2(1322)年5月26日後醍醐天皇、北山第に行幸。
- 9月10日西園寺実兼、死去。西園寺実衡、関東申次に就任。
- 正中元(1324)年7月17日二条為藤、死去。
- 9月19日六波羅探題、洛中の不穏分子を殺害捕縛(『正中の変』)。
- 嘉暦元(1326)年7月24日量仁親王(光厳天皇)、立太子。
- 11月4日公宗、春宮大夫に就任。
- 11月18日実衡、死去。公宗、関東申次に就任。
- 元弘元(1331)年3月4日後醍醐天皇、北山第へ行幸。
- 3月6日北山第で花の宴を開催。
- 元弘2(1332)年3月7日後醍醐天皇、穏岐国へ配流される。
- 3月22日光厳天皇、即位。
- 元弘3(1333)年5月7日足利高氏、六波羅を攻撃。
- 5月9日北条仲時、自刃。
- 5月17日光厳天皇、廃位。
- 5月22日北条高時が自刃し、鎌倉幕府は滅亡する。
- 6月5日後醍醐天皇、京に還幸。
- 建武2(1335)年6月22日公宗、捕縛される。
- 6月26日公宗、罪名勘申。
- 8月2日公宗、斬殺される。