織田信友(織田彦五郎)【織田信長なんか大嫌いっ!尾張国下四郡守護代の「しくじり人生」】

織田信友(織田彦五郎)について

【名前】 織田信友(織田彦五郎)
【読み】 おだのぶとも(おだひこごろう)
【通称】 大和守
【生年】 不明
【没年】 天文24(1555)年4月20日
【時代】 戦国時代
【出仕先】 斯波氏(尾張国守護)
【職能】 尾張国下四郡守護代・尾張国清須城(清州城)城主
【父】 不明
【養父】 織田達勝
【母】 不明
【兄弟姉妹】 不明
【配偶者】 不明
【子】 不明
【氏】 織田氏(織田大和守家当主)

織田信友(織田彦五郎)の生涯

織田信友(織田彦五郎)の生い立ち

織田信友の誕生した時期は不明である。

また、正確な実父も不明である。

信友は、尾張国下四郡の守護代・織田達勝(織田大和守家)の養子に迎えられ、当主として清須城(清州城)に入ったとされる。

清州城(清須城)跡
(清須城跡)

《尾張下四郡の支配体制》


守護  斯波氏(斯波義統)
    ┃
尾張下四郡守護代 織田大和守家(織田彦五郎信友)
    ┃
    ┣守護代有力家臣 坂井氏
    ┃
    ┣三奉行家(分家) 織田因幡家
    ┣三奉行家(分家) 織田弾正忠家(織田信秀)
    ┗三奉行家(分家) 織田藤左衛門家

当時、尾張下四郡の守護代家は、有力家臣の坂井大膳が牛耳っており、信友を養子に迎えたのも大膳の意向であったとする説もある。

織田信友(織田彦五郎)と織田信秀

織田信友が守護代を相続した正確な時期は不明である。

ただ、信友が守護代に就いた頃には、家臣筋である三奉行家のひとつ織田弾正忠家の織田信秀が守護代を上回る実力を有していた。

先代の織田信定から引き続き、本拠を勝幡城に構える信秀は、津島社を抑え門前町の商業を保護し、河川港湾を中心に流通を発展させることで豊かな経済圏を形成していた。このことで、守護代家をも遥かに凌ぐ経済的実力を持つに至っていた。

さらに、信秀は、潤沢な資本を基盤として、自分の支配権を拡大し、那古屋城・末森城・古渡城を築城していた。その上、京にある内裏の修理費用を献上する等していたのである。

また、尾張国の内外で軍事行動が行われる場合、尾張国内の国衆が兵の動員や軍資金の調達等において信秀に支援を求めることが常態化していた。

このように、経済力・軍事力・外交力で上回る信秀に、信友は歯が立たない状況だったのである。

織田信友(織田彦五郎)と織田信長

天文21(1552)年(別説あり)、目の上のコブでもあった織田信秀が亡くなると、織田信長が後継者となる。

織田信長
(『織田信長像(部分)』長興寺所蔵 Wikimedia Commons)

織田信友は、これを好機を捉えて織田弾正忠家の弱体化を図る。実際には、信友の家臣である坂井大膳・坂井甚介・河尻与一(秀隆)・織田三位が謀議したものと伝えられる。信友は、大膳たちが出した謀議の結論に従うだけであった。

天文22(1553)年8月、大膳等は、松葉城の織田伊賀守から人質を取って配下に置いた。続いて、深田城の織田右衛門尉(信次)を強引に説き伏せ、信長から切り離すことに成功するのである。

織田右衛門尉(信次)は、織田信長の叔父。織田伊賀守については詳しい系譜は不明。

この事態に、信長は、すぐさま軍事行動を起こし反撃に出る。

信長は、叔父の織田信光の加勢を得て、松葉口・三本木口・清須口へ兵力を展開。そこから、信長軍と信光軍が合流して萱津口を攻撃したのである。『萱津合戦』である。

信長の電光石火の軍事行動の前に受け身となった信友軍であるが、応戦し五分の戦いに持ち込んでいる。しかし、徐々に押され、清須城内に兵の撤収を余儀無くされた。また、松葉城と深田城も信長の手に陥ちた。

この合戦で、信友軍は甚介を始め50騎ほどの有力な家臣を喪い敗北する。

信長が信光の援軍を得られることが明確となり、もはや正面からの軍事行動に勝ち目が無いと見るや、信友たちは次に信長の暗殺を計画する。

しかし、この謀議は、斯波義統(尾張国守護)の家臣・簗田弥次右衛門からあっさりと信長に漏洩してしまい、逆に信長に清須城下を徹底的に焼き払われてしまう憂き目に遭ってしまう。

このような信友の失態続きの有様を見た義統は、次第に信友から距離を置くようになる。また、「義統が清須城を乗っ取る」と言う噂も流れるようになる。

このため、信友は信長を攻めるどころでは無くなった。

織田信友(織田彦五郎)と守護・斯波義統

天文23(1554)年、斯波義統の子の斯波義銀が家臣を連れて川魚漁に出かける。

この隙を狙い、坂井大膳・河尻与一(秀隆)・織田三位が謀議し、自分たちから離れて織田信長に接近しようと目論む斯波義統を排斥すべく襲撃した。進退窮まった義統は、屋敷に火を放ち自刃するしかなかった。

義統の死を知った義銀は、織田信長の下に保護を求めて走った。

一方、義銀を保護したことで「守護代に討たれた守護のための仇討ち」と言う思わぬ「大義」を得た信長は、清須城への攻撃を開始する。

信友軍は信長軍にジリジリと押され続け、三王口から乞食村(『信長公記』ママ)を経て誓願寺前、さらに大堀へと追い込まれて行く苦しい戦況であった。

そして、接近戦に持ち込んだ信長軍が装備していた長槍の威力の前に信友軍は惨敗を喫する。

この合戦の結果、信友側は、織田三位を始め30騎を喪い、もはやまともに戦えるだけの兵は残されていなかった。

織田信友(織田彦五郎)、謀略の果てに

窮地に陥った織田信友は、坂井大膳の策を受け入れ、織田信光(織田孫三郎)を味方に引き入れようと図る。

大膳は、信光に対して、信友と並び、

『ともに守護代にお成りください』

(『信長公記(上)』 太田牛一原著 榊山潤 訳 ニュートンプレス)

と密かに誘ったところ、信光から受諾の返事を得ることに成功する。さらに、信光は起請文を大膳に差し出した。

これは、信光を信長からの切り離しに成功したことを意味した。

自分の守護代の地位が二分されることを信光誘引の条件とした信友の心情を伝える史料は残されていない。言い換えれば、この時、そこまで信友は追い込まれていたのである。

こうして、信友は、信光を清須城の南櫓に迎えた。

この時、織田信光は「尾張国下四郡を二分割する」ことで、織田信長と話がついていた。

一方の信光は手勢の兵を櫓内に秘密裡に配して、大膳を殺害しようと待ち構えていた。ところが、この信光の策謀を察知した大膳は遁走する。

哀れなのは信友であった。

大膳に逃げられてしまい焦る信光に追い詰められ、もはや進むことも退くことも出来ず、どうすることも出来ず自刃して果てるしか無かった(信光に殺害されたとする説もある)。

ここに、尾張国下四郡の守護代として権勢を誇った織田大和守家は滅亡する。

織田信友(織田彦五郎)とは

織田信友は、そもそも出自に不明な点が多いことから判るように、「お飾り」の尾張国下四郡の守護代として迎えられたものと考えられる。

実際、織田大和守家の譜代家臣であるはずの坂井大膳は「小守護代」と呼ばれるほどの実力を有しており、大膳あっての信友であったと言える。

信友は、織田弾正忠家を弱体化させるために謀略を仕掛けるが、策を立案し実行するのは、大膳・坂井甚介・河尻与一(秀隆)・織田三位たちであって、あくまでも「尾張国下四郡守護代」として、それらの策を裁可ではなく、あくまでも認可するだけの立場に過ぎなかったと考えられる。

しかし、大膳たちの策は毎度毎度失敗し、その度に、信友は自らの頸を締める結果となった。

そして、遂には「尾張国下四郡守護代」と言う自分の唯一のアイデンティティを織田信光に差し出してでも生き残る道を求めるしかなかったのである。しかも、それとて、大膳の策であったところに信友の悲劇がある。

信友には室(妻)もいたはずであり、また、子供たちもいたであろうと考えられるが、信友に関する系譜を伝える確かな史料は、まるで日本史上に信友の存在自体が無かったかのように何も残されていない。

織田信長が存在しなければ、坂井大膳の補佐を得て、例え「お飾り」であったとしても、尾張国下四郡守護代に列するひとりとして、織田信友は、その生涯を全う出来たのかも知れない。

織田信友(織田彦五郎)の系図

《織田信友系図》

織田達勝=信友

(「=」…養子)

織田信友(織田彦五郎)の年表

年表
  • 天文22(1553)年
    8月15日
    織田信長に軍事圧力を加える。
  •  
    8月16日
    『萱津合戦』で織田信長に敗北。松葉城・深田城を喪失。
  • 天文22(1553)年
    7月12日
    斯波義統を襲撃し自刃させる。
  • 弘治元(1555)年
    4月20日
    自刃する。