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百済王善光(百済王禅広)について
【名前】 | 百済王善光(百済王禅広)・善光王(『扶桑略記』)・余禅広 |
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【読み】 | くだらのこにきしぜんこう・ぜんこうおう・よぜんこう |
【生年】 | 不明 |
【没年】 | 不明 |
【時代】 | 飛鳥~藤原京時代 |
【位階】 | 正広肆(従三位相当) |
【追贈】 | 正広参(正三位相当) |
【官職】 | 不明 |
【出自】 | 百済王族 |
【百済名】 | 余禅広・余勇 |
【父】 | 百済国王義慈王(弟説あり) |
【母】 | 未詳 |
【兄】 | 豊璋 等 |
【子】 | 百済王昌成・百済王遠宝・百済王南典(曾孫説あり) |
【孫】 | 百済王郎虞(子説あり) |
【曾孫】 | 百済王敬福 |
【氏】 | 百済王氏(百済氏) |
【姓】 | 王 |
百済王善光(百済王禅広)の生涯
百済王善光(百済王禅広)の生い立ち
百済王善光(余禅広)は、百済国王である義慈王の王子として生まれる。
(百済)
善光の生母は未詳である。確かな誕生年も不明であり、百済時代の様子も判らない。
その善光が、倭(日本)と関わりを持つ契機となったのは、7世紀の東アジアの情勢である。
当時の百済は、高句麗や新羅との間で軍事紛争を繰り返していた。
そこに、かねてから朝鮮半島の支配を目論んでいた唐が高句麗征討を断念し新たに朝鮮半島への侵略の足掛かりとしての目標を高句麗から百済へと変更したのである。そこで、唐は、百済の宿敵である新羅と同盟した。
このような危機的状況に陥った義慈王は、倭(日本)との外交に活路を求め、自分の王子を倭国に派遣する手段を選ぶ。
百済王善光(百済王禅広)、人質として倭(日本)へ
義慈王の目的は、倭(日本)から援助を引き出すことであった。
同時に、派遣した王子を倭(日本)の朝廷に食い込ませることで、倭(日本)の朝議を百済贔屓へと誘導する目的もあった。
倭(日本)に派遣する王子は、最初から、禅広王(善光・余禅広)と豊璋王の2名であったのか、それとも、最初は、どちらか1名であったが、後に2名に増えたのかは判らない。
いずれにしても、こうした重要な役目、即ち、百済の国運を背負って、二人の王子(禅広王と豊璋王)は、倭(日本)にやって来たのである。時に、舒明天皇3(631)年のことであった。
『義慈王遣其子豊璋王及禪廣王入侍』
(『續日本紀』国立国会図書館デジタルコレクション)
この時、禅広王(善光・余禅広)と豊璋王が、それぞれ何歳であったのか、確かな年齢は不明である。
なお、『日本書紀』には、禅広の名は記されず漏れている。
『三月の庚申の朔に、百濟の王義慈、王子豊璋を入りて質とす』
(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
禅広と豊璋がやって来た当時の倭(日本)は、蘇我氏本宗家を中心とした政治体制の時代であった。
所謂「古代の文明開化」期とも呼ばれる時代で、大陸や朝鮮半島から様々や文物が入って来ていた時期である。
百済王善光(百済王禅広)と古代日本の文明開化
舒明天皇11(639)年7月、オキナガタラシヒヒロヌカノ大王(舒明天皇)は、百済川のほとりに「大宮」と「大寺」を造営する詔勅を出している。「大宮」は百済宮のことであり、「大寺」は百済大寺(大安寺)のことである。
(百済宮推定地)
この百済宮や百済大寺と、禅広王(善光・余禅広)たち二名の王子との関係は見当たらないが、百済大寺に、九重大塔が建立されていることは注目に値する。
注目すべきは、ほぼ同時期に、新羅の皇龍寺にも九重大塔が建設されていることである。
皇龍寺の九重大塔建設には、敵対しているにも関わらず、新羅は、わざわざ百済から建設技術者を招聘し技術支援を受けているのである。ならば、倭(日本)においても、禅広王(善光・余禅広)と豊璋王を介して、百済の技術者が招聘された可能性が高いように思われる。
ただ、いずれにしても、蘇我氏一族と禅広たちとの親交は正史には残されていない。
その後、蘇我氏本宗家に対する一連の政変劇、所謂『大化の改新』が発生する。
百済王善光(百済王禅広)と『大化の改新』
蘇我入鹿が、ナカノオオエ王子(中大兄皇子)一派に暗殺された事件は、「三韓との外交」が鍵である。
中大兄皇子としては、「三韓からの使者」を本物と入鹿に思い込ませるためには、百済王族である禅広王(善光・余禅広)や豊璋王の支援を必要としたものと容易に想像されるところではあるが、禅広王(善光)たちが関与した記録は無い。あるいは、歴史の闇の出来事であったのかも知れない。
こうして、蘇我氏本宗家の時代からナカノオオエ王子(中大兄皇子)を中心とする中央集権の時代となっても、しばらくは、禅広王(善光・余禅広)たちは、倭(日本)で平穏な生活を送っていたようである。
しかし、斉明天皇6(660)年になって事態は急を告げる。
百済王善光(百済王禅広)と百済滅亡
まず、正月に、高句麗の使節である乙相賀取文がやって来る。
この高句麗からの外交使節団の規模は100名であった。百済と同じく、唐と新羅からの圧力を受けている高句麗が倭(日本)との外交関係を重視し始めたのである。
やがて、朝鮮半島において、唐と新羅が連合して、百済への侵略を開始。そして、7月、百済は、唐・新羅連合軍の圧倒的な軍事力の前に滅亡する。
『百濟は始祖より義慈王に至るまで三十一王六百七十八年で亡んだ』
(『朝鮮史大系 上世史』小田省吾 国立国会図書館デジタルコレクション)
国家が滅んでも人民は残る。人民は生き続けなければならない。
百済の遺臣たちは、百済の復興を果たすべく、沙弥覚従が来倭し、倭(日本)に支援を要求し、百済の武将である鬼室福信は、唐軍の捕虜100人を倭(日本)に献上している。
倭(日本)では、唐軍の捕虜を美濃国に定住させている。
この上で、百済遺臣たちは、倭(日本)に滞在している二人の王子を、百済再興の旗印に立てるべく返還するように求めて来る。
『天朝に遣し侍る王子豊璋を迎へて、國の主とせむとす』
(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
倭(日本)側は、この要求に応じ、12月には、アメトヨタカライカシヒタラシヒメノ大王(斉明天皇)自らが、百済救援のために大和を出発し西下の軍旅に就く。
倭(日本)を朝鮮半島での軍事介入に動かした背景には、ナカノオオエ王子(中大兄皇子)や中臣鎌足たちへの禅広王(善光・余禅広)に拠る熱心な働き掛けもあったものと思われる。
斉明天皇7(661)年、アメトヨタカライカシヒタラシヒメノ大王(斉明天皇)は、瀬戸内海を西進し、筑紫国朝倉橘広庭宮に入る。
戦場の最前線に最も近い場所へ朝廷そのものが「大本営」と化したのである。
ところが、老境にあったアメトヨタカライカシヒタラシヒメノ大王(斉明天皇)に軍旅の強行日程は大きな負担であったようで、間もなく崩御する。
倭(日本)側にも大きな動揺が走る中の9月、ナカノオオエ王子(中大兄皇子)は、豊璋王に「織冠」を授与し、倭(日本)の兵士を付けて、朝鮮半島への出兵を開始する。
百済王善光(百済王禅広)と倭(日本)の敗戦
天智天皇称制元(662)年5月、豊璋王が百済の国王に即位する。
こうして、百済は復興に向けて動き出したかに見えたが、天智天皇称制2(663)年、豊璋王が鬼室福信を斬刑に処してしまったことで、一気に百済人民の人心は乱れ、百済は内部組織が瓦解してしまう。
加えて、倭(日本)水軍が、『白村江の戦い』で、唐水軍の前にあっけなく敗北したことで、百済再興は完全に潰え去る。
9月になって、祖国を失った百済人たちの倭(日本)への亡命が開始される。
倭(日本)へ亡命したのは、王族・貴族・官人・軍人、そして一般人民に至るまで実に大量の人々が難民として、次々と倭(日本)に押し寄せたのである。
この混乱の中、天智天皇称制3(664)年3月、禅広王(善光・余禅広)は、難波に居住地を与えられる。場所は、摂津国百済郡と考えられている。
『百濟王善光等を以て、難波に居らしむ』
(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
『百濟國善光王入本朝居住難波』
(『扶桑略記』国立国会図書館デジタルコレクション)
(摂津国百済郡推定地)
この禅広王(善光・余禅広)の難波居住は、百済からの難民の管理が目的であった可能性が極めて高い。
亡命者が、王族・貴族・官人・軍人であれば、義慈王の王子である禅広王(善光・余禅広)の威光は抜群である。即ち、禅広から王族・貴族・官人・軍人たちを通して、一般の百済人民を整然と管理させることが出来たのである。
事実、大量の移住であったにも関わらず、各地で百済人に依る混乱や暴動が発生した記録は一切残されていない。
こうした中、唐使の郭務ソウ(りっしんべんに「宗」)が倭(日本)との戦後処理の交渉のため来倭する。
天智天皇称制4(665)年2月、ナカノオオエ王子(中大兄皇子)は、亡命して来た百済官人を朝廷に登用するため、百済の官制を倭(日本)の官制と対比研究させている。
また、百済人400名を近江国神崎郡に定住させた。他に、同国蒲生郡に700人等、湖東方面に多く移住させている。
『移民の中には種々の技藝に長じたものも多く、開墾その他の事業にとって、頗る好果を収めることゝなった』
(『滋賀縣史 第一巻』国立国会図書館デジタルコレクション)
とされ、近江国は、大和国を凌ぎ、百済の技術を駆使し一躍先進地へと変貌する下地が出来る。
一方、唐も倭(日本)に圧力を加え、9月には、劉徳高が合計254名の外交団を従え来倭する。
唐との外交交渉の中においても、禅広王(善光・余禅広)は、倭(日本)側の「外交カード」として使われていたようである。何故ならば、倭(日本)が、今後も朝鮮半島に軍事介入する際には「百済王」として擁立することが可能だったからである。
もはや、国力が尽き果てた状態であっても、唐に対して、朝鮮半島出兵の口実を持ち続けることは必要なことだった。それは、裏を返せば、唐との関係修復のカードだったのである。
天智天皇称制6(667)年3月、ナカノオオエ王子(中大兄皇子)は、大和国の飛鳥を棄てて新たに近江国に大津宮を築き遷都する。
これは、唐からの侵略の危惧に備える防衛上の地勢の有利さに加えて、先に百済から亡命して来た百済人が近江国へ入植したことで、僅か2年ほどで近江国が首府としての大津宮を支えるだけの経済力・生産力を持つに至ったことを意味しよう。
その上で、天智天皇7(668)年正月には、ナカノオオエ王子(中大兄皇子)が即位する(天智天皇)。
なお、同年、朝鮮半島では高句麗が滅亡している。
帰化官人としての百済王善光(百済王禅広)
大津宮に遷都したことで、ようやく、政治は落ち着きを取り戻したかに見えた。
しかし、天智天皇8(669)年10月、藤原鎌足が死去し、天智天皇10(671)年12月には、アメミコトヒラカスワケノ大王(天智天皇)が崩御すると事態は変わる。
畿内で、アメミコトヒラカスワケノ大王(天智天皇)の王子で大王(天皇)位に即いたオオトモ大王(弘文天皇)と、アメミコトヒラカスワケノ大王(天智天皇)の弟で王位(皇位)簒奪を目論むオオアマ王子(大海人皇子)との間で軍事衝突が発生する。
天武天皇元(672)年の『壬申の乱』である。
結果、大海人皇子が勝利し王位(皇位)を簒奪する。アマノヌナハラオキノマヒトノ大王(天武天皇)の登場である。
天武天皇朝での禅広王(善光・余禅広)の動静は全く不明であるが、アメミコトヒラカスワケノ大王(天智天皇)が親百済派だったのに対し、アマノヌナハラオキノマヒトノ大王(天武天皇)は親新羅派であったために、禅広王(善光・余禅広)たち百済人たちは極めて冷遇されていたものと推察される。
天武天皇3(674)年には、子の昌成が死去する。
昌成に先立たれ喪に服していたはずの禅広王(善光・余禅広)は、天武天皇4(675)年正月の朝賀の儀で、大学寮の学生・隠明寮・外薬寮・舎衛の女・堕羅の女・新羅の仕丁と共に、薬品や珍品を献上すべく出席している。
『大學寮の諸の學生・陰陽寮・外藥寮及び舎衞の女・堕漢の女・百濟王善光・新羅の仕丁等、藥及び珍異しき等物を捧げて進る』
(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
百済の王族である禅広王(善光・余禅広)の名前は、下級の官人や女官たちと共に無造作に並べられていることに象徴されるように、禅広王(善光・余禅広)は、アマノヌナハラオキノマヒトノ大王(天武天皇)に余興の見世物にされたのである。
アマノヌナハラオキノマヒトノ大王(天武天皇)から、禅広王(善光)が、いかに屈辱的とも言える扱いを受けていたかが判る。
そして、この頃に倭(日本)は「日本」を国号にしたと考えられる。
王位(皇位)を簒奪したアマノヌナハラオキノマヒトノ大王(天武天皇)は、従来の「倭」から国号を新しく「日本」とした自らの権力に自惚れ、唐の大中華思想を真似て小中華思想を持つに至り、禅広王(善光・余禅広)に対して、このような屈辱的な扱いをしたのであろうか。
だが、そのアマノヌナハラオキノマヒトノ大王(天武天皇)も朱鳥元(686)年9月に崩御。
アマノヌナハラオキノマヒトノ大王(天武天皇)の大葬において、禅広王(善光・余禅広)は、子の郎虞に誄を代読させている。
これは、郎虞を朝廷の儀式に列席させる目的であったのか、それとも、自分を冷遇したアマノヌナハラオキノマヒトノ大王(天武天皇)への反発であったのか、それは、禅広王(善光・余禅広)自身しか判らないことである。
なお、この時の禅広王(善光・余禅広)たちは、官人や客人では無く、「百済王」と言う百済を代表する立場で、アマノヌナハラオキノマヒトノ大王(天武天皇)の大葬に出席したものと解釈されている。
アマノヌナハラオキノマヒトノ大王(天武天皇)の後を継いだのはアマノヌナハラオキノマヒトノ大王(天武天皇)の皇后であり、アメミコトヒラカスワケノ大王(天智天皇)の王女である兎野皇后であった。
兎野皇后は即位(持統天皇)すると、正確な年次は未詳であるが、禅広王(善光・余禅広)に対し「百済王」の姓を授与する。
ここに、朝廷から禅広王(善光・余禅広)から始まる系統が百済王の末裔と公認されたのである。それは、同時に、日本を第二の故郷とし、日本の官人として中央官人への道が開かれたことを意味する。
そして、持統天皇5(691)年正月には、郎虞や百済王遠宝・百済王南典等の子供たちと共に「優(にぎほ)」を下賜された上で、封戸100戸を加増され、合計200戸を封戸としている。
この時、禅広王(善光・余禅広)は、「正広肆(従三位相当)」と言う日本の官位を帯びている。ちなみに、子の遠宝は「直大肆(従五位上相当)」であり、南典は無位である。
つまり、現存する記録上では、持統天皇5年が、日本の官人としての禅広王(善光・余禅広)のスタートである。
ただし、この持統天皇5年の時点では、百済王族時代の「余」と言う姓を名乗っており、先に官位を受けた後に、「百済王」の姓を授与され、日本に帰化した可能性を示唆している。
持統天皇7(693)年正月、持統天皇は、禅広王(善光・余禅広)に対して「正広参」を追贈する。
『正廣参を以て、百濟王善光に贈ふ。并せて賻物賜ふ』
(『日本書紀 下 日本古典文學大系68』坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
このことから、持統天皇6(692)年に、禅広王(善光・余禅広)は亡くなったのではないかと推測される。
百済王善光(百済王禅広)のまとめ
百済王善光の出自について、一般には、義慈王の子とされるが、弟説もある。
また、豊璋との長幼の順も明らかでは無いが、豊璋が倭から百済へ帰国し百済王に即位していることから、豊璋が兄で、善光が弟と解される。
その善光は、舒明天皇3(631)年に生国である百済を離れて来倭し、持統天皇6(692)年頃に死去するまでの61年間ほどを日本で過ごした。
善光の一生は、間違いなく日本で過ごした時間の方が長かった。
オキナガタラシヒヒロヌカノ大王(舒明天皇)やアメトヨタカライカシヒタラシヒメノ大王(皇極天皇・斉明天皇)の時代を生きた善光は、『山背大兄王の変』や『乙巳の変』からの『大化の改新』と続く、日本の動乱を間近で見ていたはずである。
しかしながら、善光や豊璋王たちの生活ぶりについて、正史は語らず、斉明天皇6(660)年の百済滅亡時、善光たちが、どこで暮らしていたのかも判らない。
アメミコトヒラカスワケノ大王(天智天皇)の時代、百済からの亡命者の受け入れと百済の優れた官制の移植に尽力したが、続く、アマノヌナハラオキノマヒトノ大王(天武天皇)の時代には、一転して苦しい忍従の日々を過ごした。
そして、持統天皇朝で、日本の官位と「百済王」姓を与えられ、ようやくのことで日本の官人として生きる道を得たのである、
しかしながら、善光への追贈について記述があるにも関わらず、善光の死について正史が書き留めていないのは、あるいは、「百済王」姓は、善光の死後、善光の功績を称えて、その子等に与えられたものであることを示唆するものかも知れない。
実際、正史は、善光を「百済王」姓で記しながらも、同時に、善光が百済由来の「余」姓を名乗っていたことを記している。
もしも、善光自身が「百済王」姓を得ていない、あるいは、名乗らなかった、としたのならば、それは、百済からの亡命者たちに対し、自らが百済王家の人間として振舞うことで彼らの心を慰撫する役割を果たしていたのであろうか。善光は百済のために人質として祖国を離れ、その異国でも百済のために、その人生の最期まで尽くしていたのであろうか。
その後、善光の子孫たちは帰化官人たる百済王氏として朝堂において活動し、奈良時代には、東大寺の大仏造立に貢献し、とりわけ、桓武天皇の時代になると桓武天皇の生母である高野新笠に連なるとして、百済王氏の一族史上最高とも言える栄光の時を迎える。
全ては、百済王善光から始まったのである。
百済王善光(百済王禅広)の系図
《百済王善光(百済王禅広)系図》 高朱蒙━温祚王━(略)━義慈王┳豊璋 ┗百済王善光━昌成━郎虞━敬福
百済王善光(百済王禅広)の年表
- 舒明天皇3(631)年3月人質として豊璋と共に来倭。
- 舒明天皇11(639)年7月舒明天皇、「大宮」と「大寺」造営の詔勅。
- 斉明天皇6(660)年正月1日高句麗使節乙相賀取文、筑紫に来倭。
- 5月8日高句麗使節乙相賀取文、難波の迎賓館に到着。
- 7月百済、唐・新羅連合軍に侵略され滅亡。
- 9月5日百済の官人・沙弥覚従、来倭。
- 10月百済の武将・鬼室福信、唐の捕虜100人を倭に献上する。
- 12月24日斉明天皇、百済救援のために大和国を離れ難波宮へ行幸。
- 斉明天皇7(661)年3月25日斎明天皇、筑紫国那大津に到着。
- 5月9日斉明天皇、朝倉橘広庭宮に入る。
- 7月24日斉明天皇、崩御。
- 9月中大兄皇子、豊璋に「織冠」を授与し百済へ送り出す
- 天智天皇称制元(662)年5月豊璋、百済王に即位。
- 天智天皇称制2(663)年6月豊璋、鬼室福信を斬刑に処す。
- 8月27日『白村江の戦い』。
- 9月7日百済州柔城が落城。
- 9月25日百済人の日本亡命が開始。
- 天智天皇称制3(664)年3月難波に居住地を与えられる。
- 5月17日唐使・郭務ソウ(りっしんべんに「宗」)、来倭。
- 天智天皇称制4(665)年2月百済の官制の導入が検討される。百済人400名を近江国神崎郡に定住させる。
- 9月23日劉徳高が254名の使節団を率いて来倭。
- 11月13日倭、劉徳高と交渉開始。
- 12月14日劉徳高、帰国。
- 天智天皇称制6(667)年3月19日大津宮に遷都。
- 天智天皇7(668)年正月3日中大兄皇子、即位(天智天皇)。
- 天智天皇8(669)年10月16日藤原鎌足、死去。
- 天智天皇10(671)年12月3日天智天皇、崩御。
- 天武天皇元(672)年5月『壬申の乱』。
- 天武天皇3(674)年正月10日昌成が死去する。
- 天武天皇4(675)年正月1日朝賀の儀で薬品や珍品を献上する。
- 天武天皇13(684)年10月1日『八色の姓』制定。
- 朱鳥元(686)年9月30日天武天皇の大葬において、郎虞に誄を代読させる。
- 持統天皇5(691)年正月7日「優」を下賜される。
- 正月13日封戸100戸を加増し合計200戸となる。
- 持統天皇7(693)年正月15日「正広参」を追贈される。