明智十五郎(明智光慶)【ルイス・フロイスも絶賛!明智光秀の嫡男はイケメン!】

明智十五郎(明智光慶)について

【名前】 明智十五郎(明智光慶)
【読み】 あけちじゅうごろう(あけちみつよし)
【生年】 永禄12(1569)年
【没年】 天正10(1582)年
【時代】 戦国~安土桃山時代
【父】 明智光秀
【母】 妻木熙子
【兄弟姉妹】 明智十二郎・明智乙寿丸・明智玉(細川ガラシャ) 等
【義兄弟姉妹】 明智秀満・荒木村次(村安)・津田信澄 等
【配偶者】 なし
【子】 なし
【氏】 明智氏

明智十五郎(明智光慶)の生涯

明智十五郎(明智光慶)の生い立ち

明智十五郎は、明智光秀の嫡男とされる。

光秀の誕生年が不明であることから正確なことは言えないが、凡そ光秀の年齢が30歳代以降に、十五郎は誕生したものと想像される。

なお、十五郎の誕生年は、永禄12(1569)年とされるが、これも正確には不明と言わざるを得ない。

明智光秀正室の妻木熙子が母である。

熙子の誕生年は不明であるが、熙子の誕生年を光秀と同年代とした場合、30歳代以降の出産と言うことになり、当時としてはかなりの高齢出産となる。

光秀にとっては壮年期に入ってようやく得た嫡男であり、目に入れても痛く無いほどの大切な存在であったと思われる。

なお、十五郎の諱として巷間使われる「光慶」の名は、『明智軍記』等の全く信用出来ない軍記物に記されているだけで、他の確かな史料には見えない。このようなことから「光慶」の諱はデタラメの可能性が高い。

明智十五郎(明智光慶)と明智光秀の出世

明智十五郎が誕生した頃、父の明智光秀は、織田信長に近侍するようになる。

織田信長
(『織田信長像(部分)』長興寺所蔵 Wikimedia Commons)

光秀は織田家の家臣となるや、メキメキと実力を発揮し出世して行く。光秀は、近江国坂本に城を与えられ居城とし、十五郎も光秀に従い坂本城で日々を過ごしていたものと思われる。

坂本城跡
(坂本城跡)

一方で、光秀が激務に倒れたり、母の妻木熙子が亡くなったりと、十五郎にとっても、物心が付いた頃には目まぐるしい日々を過ごしていたようである。

とりわけ、熙子が亡くなった時の十五郎の年齢は満7歳ぐらいであったと推測される。

熙子が亡くなると、すぐに光秀は後妻を迎えているが、一説では、熙子の姉妹を後妻としたとされている。ならば、十五郎は、伯母(叔母)を継母にしたこととなる。

幼くして、人の世の「光と影」を見たのが、十五郎である。

明智十五郎(明智光慶)、歴史に見える実像

天正9(1581)年、明智玉(細川ガラシャ)の嫁ぎ先である細川忠興の丹後国宮津城細川屋敷において、明智光秀父子三人が、忠興主催の茶会に出席している。

この時、光秀と同席した「子」の内の一人が、恐らく明智十五郎であろうと見られている。

そうであるならば、日本史上で、十五郎の動静がはっきりとする最初の事績である。十五郎の誕生年を永禄12年とした場合、満12歳前後の出来事となる。

茶会への出席は、明智家と細川家の「身内」間の私的な間柄としての出席と見られ、この当時、十五郎は元服前と推測される。

明智十五郎(明智光慶)と『本能寺の変』

天下統一を目前とする織田信長の重臣筆頭の明智光秀の後継者として、その元服が待たれた明智十五郎であった。

しかし、天正10(1582)年、十五郎の人生は大きく変わる。光秀が織田信長への謀反を企てたのである。

『信長公記』には、光秀が謀反計画を打ち明けた相手は、明智秀満・斎藤利三・明智次右衛門・藤田伝五・三沢秀次(溝尾秀次)としている。

十五郎が、『本能寺の変』勃発時、何処にいたのか?実は定かではない。

明智十五郎(明智光慶)と『山崎合戦』

父の明智光秀が主君の織田信長を討ったことで。明智十五郎も高揚感に包まれたことであろう。

だが、十五郎は、光秀の嫡男でありながら『本能寺の変』後に軍事的な役割を一切与えられていない(要所の抑え等)。このことは、当時、十五郎が未だ元服していなかったことの傍証とも言える。

だが、高揚感は時間の経過と共に不安と焦燥に変わって行く。備中国で毛利氏と戦闘中であった羽柴秀吉が畿内に帰還しつつあるとの情報が入ったのである。しかも、終始、正確な情報を入手出来ない不利なままで、光秀は、秀吉を迎撃することとなる。即ち『山崎合戦』である。

『山崎合戦』時には、十五郎は亀山城に居たものと思われる。

亀山城跡
(亀山城跡)

と言うのも、ルイス・フロイスの記録には、坂本城で光秀の二人の子が死んだことが書かれているからである。

この二人を、十五郎の二人の弟、即ち、十二郎と乙寿丸のことと判断すれば、十五郎は亀山城に在ったことが見えて来る(ただし、光秀の三男の乙寿丸については、その存在を否定する説も有力であることから、十五郎は坂本城で死亡したとする説も排することは出来ない)。

そうなると、山崎で光秀の軍勢を撃破し、勢いに乗った羽柴秀吉軍の中川清秀部隊・高山重友部隊を相手に、少ない城兵を率いて、父の光秀に代わって、十五郎も戦闘に参加していた可能性も考えられる。

だが、城兵の足軽たちは負け戦を前にして我先に次々と逃亡したであろうし、それは絶望的な戦いであった。

その戦いの最中、十五郎は最期を遂げるのである。

ただ、『山崎合戦』後、光秀一族の頚が晒されているが、その中に十五郎の頚があったとの確かな記録は残されていない。

そのことから、十五郎は落城の混乱に紛れて逃亡し、生き延びたのではないかとの説もある。

明智十五郎(明智光慶)とは

明智十五郎は、父親譲りの高い教養と知識を身に付け、母親譲りの忍耐力と賢さを備えた人物であり、次代を担う若者であった。

ルイス・フロイスは、十五郎について「欧州の王侯貴族のように優美な人物」と書き残している。

これは想像ではあるが、恐らく、十五郎は、光秀の文人としての素質を充分に引き継いでいたものと思われる。

それは、荒々しく男臭いむさ苦しい戦国武者では無く、近世的な香りのするスマートさを身に付けた洗練された姿であり、来るべき新時代を体現したかのような存在であったことが容易に想像されるものである。

しかし、移り変わりの激しい非情な時の流れは、明智十五郎が、明智光秀の後継者として日本史の表舞台に登場するまで待ってはくれなかったのである。

明智十五郎(明智光慶)の系図

《明智十五郎系図》

 明智光秀
  │
  ┝━━━━━┳十五郎(光慶)
  │     ┣十二郎(定頼)
  │     ┣乙寿丸
  │     ┣女子
  │     ┃│
  │     ┃└──────────┬┐(再婚)
  │     ┃           ││
  │     ┣女子         ││
  │     ┃│          ││
  │     ┃└─────────┐││
  │     ┃          │││
  │     ┣女子        │││
  │     ┃│         │││
  │     ┃└────────┐│││
  │     ┃         ││││
  │     ┣玉        ││││
  │     ┃│        ││││
  │     ┃└───────┐││││
  │     ┃        │││││
  │     ┗女子      │││││
  │      │       │││││
 妻木熙子    │       │││││
         │       │││││
         ┝━━昌澄   │││││
         │       │││││
 織田信行━━━━津田信澄    │││││
                 │││││
         ┌───────┘││││
         │        ││││
         ┝━┳忠隆    ││││
         │ ┣興秋    ││││
         │ ┗忠利    ││││
         │        ││││
 細川藤孝━━━┳忠興       ││││
        ┗興元       ││││
                  ││││
         ┌────────┘│││
         │┌────────┘││
         ││         ││
         明智光忠       ││
                    ││
         ┌──────────┘│
         │           │
 荒木村重━━━━村次(村安)      │
                     │
         ┌───────────┘
         │
         明智秀満

明智十五郎(明智光慶)の年表

年表
  • 永禄12(1569)年
     
    誕生。
  • 天正4(1576)年
    11月7日
    母・妻木熙子、死去。
  • 天正9(1581)年
    4月9日
    細川屋敷の茶会に出席。
  • 天正10(1582)年
    6月2日
    『本能寺の変』。
  •  
    6月13日
    『山崎合戦』。
  •  
    6月14日
    亀山城、落城。